世界文学渉猟

ヘッセ

(Hermann Hesse、1877〜1962)


"PETER CAMENZIND"

『ペーター・カーメンツィント』

 ヘッセ最初の長篇小説で出世作となつた重要な一作。後の作品はそれぞれ特定の主題を持つて書かれ、限定された性格の方向性を見出せるが、この作品にはヘッセの魂が丸ごと刻み込まれてゐる。後の全作品の色彩には下塗りされた『ペーター・カーメンツィント』の色が何処かに残つてゐる。詩人の感じ易い夢想と追憶、山や雲に寄せる自然への讃歌、掛け替へのない友情と傷付き易く臆病な恋、悪徳の誘惑と敬虔な善意との格闘、絶望と救済の二面を持つ藝術の魔力。ヘッセの美質が全て純朴に注ぎ込まれてゐるのだ。何よりも死がこの作品の核心である。死は甘美な喪失感を纏つて描かれ、暗さや恐れはない。悲しみが生けるものの一部となり、死と共存するのだ。終盤のボピーとの交友に胸打たれぬ読者はゐまい。淡く美しい詩情が文学を愛する者に優しく語り掛ける名作。[☆☆☆☆]


"GERTRUD"

『ゲルトルート』

 若き日の過誤で足の自由を失ひ跛になつて仕舞つた主人公は内向的な性格を強めて行くが、救ひと慰めを音楽に見出し作曲家としての才能を開花させる。歌手ムオトとの出会ひによつて世界が広がり出し、想ひ人ゲルトルートとの淡い恋も知る。しかし、遠慮勝ちな主人公は愛を実らせることが出来ず、その隙にムオトによつて奪はれて仕舞ふ。余計者を意識する孤独な魂が狐疑逡巡し、現世的な幸福を諦観する物語だが、作中で他に幸福を掴んだ者もゐないのだ。『ゲルトルート』は切々たる喪失感が漂ふ青春讃歌である。刹那の美が音楽藝術によつて具象され作品全体を示唆してゐる。儚き人生の観想を描いた佳作。[☆☆☆]


"DER STEPPENWOLF"

『荒野の狼』

 ヘッセ最大の問題作だ。初期作品の軟弱な感傷は何処にも見当たらない。ヘッセは『デミアン』以降の内面探求を深め、詩人に敵対する俗物に譲歩することなく格闘してきた。『荒野の狼』はアウトサイダーといふ概念を先駆的に用ゐた作品として啓示的な書ともされる。荒野の狼ことハリー・ハラーのイニシャルはH・Hとなり、ヘッセの投影と考へられる。また、生への回帰を説いたヘルミーネもまたヘルマンの女性形であり、投影なのだ。無批判で迎合的、建前と方便で生きる大衆を心底軽蔑しながら、大衆の営む社会生活の埒外で存在することが出来ないことを苦しみ葛藤する。詩人には住みにくい現代社会の到来に牙を剥くのを一方では詮なきことと諦観する。「悪魔は精神だ」と自傷行為であるこの狂気を喝破し、第一次世界大戦での反戦活動で嘗めた疎外感からの蘇生を賭けた作品とも位置付けられる『荒野の狼』だが、終盤は奇術的な幻想劇場となり愉悦の中で和解を見出す。[☆☆☆]


"NARZISS UND GOLDMUND"

『ナルツィスとゴルトムント』

 この作品は人間の持つ最も美しい面の対立と和合を謳つたヘッセ畢生の名作である。ナルツィスは人間の理性を代表する。永遠で普遍のものを目指し、欲望の激流を制し、心象なしに抽象的な思索を追求し、調和と規律を愛する。ゴルトムントは人間の愛を代表する。懐疑の欺瞞を払いのけ、刹那の美と情熱がもたらす快楽に隠された得難い秘密に迫ろうとし、自己の表現を追求し、自由と生命力を愛する。ヘッセは両者の交はるところに詩と藝術の深淵を見出す。ドイツ民族が育んだ憧憬と諦観のロマンティシズムをこれほど美しく形にした作品はない。詩人はいみじくも述べる。「思索家は世界を神から引き放すことによつて神に近づこうとつとめる。(藝術家)は神の創造物を愛し、再創造することによつて神に近づく。思索も藝術もともに、人間の作つたもので、不十分である。」[☆☆☆]


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