世界文学渉猟

ゴーゴリ

(Николай Васильевич Гоголь、1809〜1852)


"ВЕЧЕРА НА ХУТОРЕ БЛИЗ ДИКАНИКИ"

『ディカーニカ近郷夜話』

 ゴーゴリの出生作となつた故郷ウクライナの説話集。前篇後篇の2つに分けられ、前篇は「ソロチンツィの定期市」「イヴァン・クパーラの前夜」「五月の夜もしくは水死女」「紛失した國書」の4篇、後篇は「降誕祭の前夜」「恐ろしき復讐」「イヴァン・フョードロヴィッチ・シュポーニカとその叔母」「呪禁のかかつた土地」の4篇、計8篇から成る。1作を除いてはウェーヂマ(妖女)や悪魔が登場する綺譚であるが、怪談に終始することはなく、伝承と共に生きるウクライナの民衆を描く要素とされてゐるところにゴーゴリの企みがある。明暗の対比も絶妙だが、不気味さは皆無で、寧ろ滑稽な描写で読者を喜ばせる。人生における幻想を巧みに織り交ぜた珠玉。[☆☆]


"НЕВСКИЙ ПРОСПЕКТ"

『ネフスキー大通り』

 文集『アラベスキ』に収録。様々な人間模様が交差するネフスキー通り。通りすがりの美女の跡をつけた男の運命を2組対置したゴーゴリの鮮やかな手腕。美の求道者である画家の幻想と破滅の痛ましさ。軽薄で権威を笠に着た俗物中尉が仕掛けた火遊びの滑稽な顛末。対照的な男らの心理と欲望が克明に描き分けられる。[☆☆]


"ПОРТРЕТ"

『肖像画』

 文集『アラベスキ』に収録。悪魔の如き眼を描き込まれた1枚の肖像画を廻る数奇な運命。傑作は、辛酸を嘗めながら藝術の奥義を極めようと大志を抱く画家が肖像画に翻弄され破滅する第1部で、成功への誘惑に狂ほしく身を委ねる焦燥感が感銘深い。肖像画の誕生秘話が語られる第2部では、宗教的な高みにまで昇華された藝術至上主義が展開される件が全篇の白眉。ゴーゴリの生涯と思想を解く鍵になる作品。[☆☆☆]


"ЗАПИСКИ СУМАСШЕДШЕГО"

『狂人日記』

 文集『アラベスキ』に収録。ロシア文学には狂人を主題とした傑作が幾つもあるが、強烈さではこの作品が随一だ。日記といふ独白体が不条理をごく自然に消化し滑稽味を帯びるため、うだつが上がらない役人への憐憫や発狂へと至る痛切さは薄く、暗さが微塵もない。読者を呆気にとらせるスペイン王の件が冴えてゐる。不条理が横行する帝政ロシアに仕掛けられた時限爆弾とも云へる問題作。[☆☆☆]


"НОС"

『鼻』

 或る日突然鼻が無くなり探し回る下級役人が、紳士に扮した自分の鼻に遭遇する―こんな人を喰つた話もカフカを先取りした不条理の戯画として読めば深みを帯びる。登場人物らは有り得ないことをいとも簡単に受け入れる。鼻を無くした当人も滑稽極まりない因果関係を付けて異常事態を説明付ける。不条理の前に立たされた人間の冷たい無関心と稚拙な反抗とが描かれる。[☆☆☆]


"ШИНЕЛЬ"

『外套』

 ゴーゴリ後期の傑作。読者は次の2つの描写に云ひ知れぬ感銘を受けるだらう。ひとつは筆生しか能のない万年最下級である貧乏官吏の仕事に対する忠勤振り。もうひとつは外套を新調するといふ人生の一大事にかけた心境の変化。何時しか可笑しみと哀れみの感情が去来する。冷淡な社会に憤懣を覚え、分を超えた願ひが絶望にまで転落した痛ましさに同情出来るのは読者のみ。[☆☆☆]


"МЁРТВЫЕ ДУЩИ"

『死せる魂』

 未完の絶筆作品で、最大の労作となる筈であつた。プーシキンより主題を与へられたゴーゴリはダンテの『神曲』を意識した三部作形式の一大叙事詩とすべく構想を膨らませた。しかし、プーシキンの衝撃的な死によりゴーゴリの創作意欲は大きく乱れ、思想信条にも変化を来すやうになつた。苦節の末、地獄篇に当たる第一部を完成させ、煉獄篇となる第二部を一旦は書き上げたものの神経衰弱甚だしく幾度も自棄し、復元が困難な状態のまま絶筆となつた。欠損が多いだけでなく内容も破綻してをり、正直申して現存する第二部に関しては読む価値はない。だが、完成された第一部こそは人間の業を抉り出した面目躍如たる傑作だ。台帳管理が杜撰なロシアでは地主は死んだ農奴の人頭税も支払つた。この無用の長物が金になることに目を付けたチチコフは二束三文で死んだ農奴の名義を漁るが、うまい話には裏があると訝る地主らと大騒動が起こる。幾分冗漫な嫌ひはあるが、グロテスクな欲望を描き出した大作。[☆☆]


BACK