ジッド

(André Paul Guillaume Gide、1869〜1951)


『法王庁の抜け穴』 "LES CAVES DE VATICAN"

 複雑に絡み合ふ登場人物らの描写に精彩があり、筋の巧みさと世界の広がりにおいて抜きん出てをり、物語構成に遜色のあるジッドの作品中最も刺激に充ちた傑作だ。特にラフカディオの自己規律は修行僧宛らで興味が尽きない。 結社員アンティムに訪れた奇蹟と改宗、法王救出の十字軍に身を投出し滑稽以外の何ものでもない最期を遂げるフルーリッソアルに見られるやうに、この作品の主題を信仰と読むことは出来る。だが、ジッドの信仰は即ち因果律の信奉でもある。因果律を理性で捉へる前者と、心性で捉へる後者の違ひは大きい。そして、因果律の彼方にと強い意志で身を処そうとするプロトスとラフカディオが陥る罠は一見偶然の仕業に見えるが、ジッドの仕組んだ袋小路に抜け穴はない。それだけにカロラとジュヌヴィエーヴの愛の形が精神的な救済を与へてくれるのだ。[☆☆☆☆]

『贋金つかひ』 "LES FAUX-MONNAYEURS"

 ジッドは自らの小説作品をソチ、レシ、ロマンと3つに分類した。『贋金つかひ』は最上格のロマンに分類された唯一の作品である。従つてジッドの最も重要な小説であり、後代に多大な影響を与へた代表作だ。しかし、実験的作品でもあり毀誉褒貶入り交じる。ジッドは『贋金つかひ』で主題を排し筋を退けた。主人公も判然とせず、語り口も多角的に変へた。この作品の概要や粗筋を述べることは決して難しいことではないが、余り意味がない。最大の特徴は伏線が伏線とならず、顛末を持たないまま散ることだ。だが、現実は正にこの通りであり、生活の中で視点は1つの事件に拘束される訳ではないことをジッドは表現した。作中のエドゥワールはジッドの投影であり藝術論は興味深く読め、俗物パッサヴァンへの嫌悪も痛烈だ。様々な点で語るべきことの多い名作だが、要素が反応し合ひ期待が高まつた後、無関係のまま終るのは肩透かしで、いただけない。[☆☆☆]

『一粒の麦もし死なずば』 "SI LE GRAIN NE MEURT"

 この書はジッドの半生を綴つた自伝的作品であるが、赤裸裸な自己暴露を行つた告白録となつてゐる。第1部は、厳格で型に嵌つた教育に反発を抱いた奔放な少年時代から作家への自己形成までを描くが、音楽的な回想録は終止和音を鳴らさない。そして第2部に至り、同性愛への性癖を自覚し、抑圧された精神と肉体が堰を切つて呼吸を始める。殊にオスカー・ワイルドが登場する件は背徳的な挑発に充ちてゐる。ジッドは全篇に亘つて直線的な時間概念を取り除き、因果律から解放された叙述を試みる。その一切の弁解を放棄する意気込みに読者はたぢろがざるを得まい。ジッドその人を解く鍵となる問題作。[☆☆]

『女の学校』 "L'ECOLE DES FEMMES"

 『女の学校』『ロベール』『ジュヌヴィエーヴ』で3部作を成し、家庭の悲劇を主題とした名作群。主人公エヴリーヌの日記といふ独白で構成され、最初は処女の視点、そして時間を経て妻および母の視点で夫ロベールを俎上に載せる。夫の偽善と虚栄と理屈による掏り替へを結婚生活を通して見破つたエヴリーヌの成長と自立への希求に共感を覚えるも、偏狭な片意地に受け取れる箇所も多い。夫より受けた感化から、高尚さを求める男の虚飾と尊大さに対する卑屈な反抗へと変容し、延いては男女の分り合へない溝を女の視点で描く。[☆☆]

『ロベール』 "ROBERT"

 『女の学校』に対する夫ロベールの反駁。妻に偽善と非難された巧妙に体裁を取り繕ふ術を周到に避けようとするが、行間から独善性や虚飾が滲み出てをり何処か空しい。しかし、直感による独断に迷ひ込んだエヴリーヌの傲慢な無神論が明らかにされ、敬虔に高貴なものを追ひ求め続けたロベールの本質が浮かび上がる。男と女の理解し難い溝を男の視点で描いた名作であり、「そうありたいと願つてゐた」ものへの価値観の持続の違ひにその深淵があるとジッドは喝破する。観念と理想を求め漸進する男の思想を、女は永続的には理解せず価値を見い出さない。[☆☆☆]


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