紫式部

(生没年不明、天延元年(979)頃?〜長和五年(1016)頃?)

 生没年未詳で確たる伝承も殆ど残らず、後代に付与された人物像が一人歩きしてゐるので注意を要する。藤原為時の娘で、年の離れた藤原宣孝に嫁ぎ、長保元年(999年)に女児賢子を儲けた。長保三年に宣孝と死別した後は、寛弘二年(1006年)頃から中宮彰子に宮仕へした。長和二年(1014年)迄は記録があるが、その後の消息はない。漢文を嗜む才女としての名声は確かで、宮仕へ期間の日記『紫日記』、家集『紫式部集』があり、『源氏物語』は出仕以前から執筆されてゐたとも云はれるが、定かではない。


『源氏物語』

 『源氏物語』が圧倒的な作品であることに異存はない。日本文学史においては絶対的な地位を与へられてゐる。「世界最古の長篇小説」と評すのも過大評価ではない。しかし、長大な作品故、総じての評価が難しく、普遍的な見解は確立されてゐない。古来、全54帖を幾つかの部分に分けて読むのが慣例となつてゐる。偏に『源氏物語』54帖全てを紫式部が書いたのか否かが問題であり、部分にわけるのは実は単独執筆への疑念を証明しようといふ試みに他ならない。源氏が登場しない「宇治十帖」の作者を紫式部ではないとする考へは古くからあり、肯定も否定も出来ないのが実情だ。しかし、ここで最も重視したいのが定本への過程である。当時は宮廷内における原本の回し読みから写本による流布以外はない。この写本の際に恣意的な改変・加筆があつたことは間違ひなく、原本が伝はらず、最古の写本も成立から200年後のものであれば、作者紫式部の絶対性に拘泥はるのは空しいことなのだ。原『源氏物語』と云へる「若紫」の帖も紫式部以外の手が加はつてゐると考へるのが当然だが、『源氏物語』の根幹を創作したのが紫式部であることを否定することは難しい。
 だが、「宇治十帖」は非紫式部作品である比率が高くなり、「若菜」以降も別人説を否定出来まい。更に「玉鬘十帖」も可能性が全くない訳ではなく、通常は「桐壺」から「藤裏葉」を第1部、「若菜」以降を第2部、「宇治十帖」を第3部とする三つの部分に分けるが、第1部を更に「玉鬘系統」の作品に分けるといふ武田宗俊の成立論に賛同したい。「玉鬘系統」とは「帚木」「空蝉」「夕顔」「末摘花」「蓬生」「関屋」と「玉鬘十帖」である。つまり、『源氏物語』は性格の異なる四つの部分に分けて読むべきで、現在のやうに時系列に添つて帖を並べて『源氏物語』を丸ごと読んでは作品の本質は決して見えてこない。「若菜」以降も続篇といふより、設定を借りた異なる物語として読むべきだ。四つの部分からなる作品群の集合が『源氏物語』なのだ。
 『源氏物語』は「若紫」より起稿され、光源氏と紫の上の物語として宮廷内で評判になったのだらう。万能の貴人が臣籍降下の苦難と、禁断の愛を乗り越える王朝物語としての性格を持つ。流謫と色好みといふ『伊勢物語』の影響を強く受けてをり、「須磨」を頂点とする歌物語の要素を看過してはならない。恋の遍歴は最も読み応へがあり、母の生き写し藤壷と、そのまた似姿紫の上といふ設定も魅惑的だ。地位を取り戻した後の源氏の栄華を描く件になると急速に魅力を失ふ。
 「玉鬘」系統の16帖は明確な趣旨がある。それは冒頭にあたる「雨夜の品定め」で語られる中の品あるいは下の品の女を描くことである。『源氏物語』はまず宮廷の女房たちによつて読まれた。上層階級の恋愛物語は共感を得にくい夢物語であり、異なる切り口が要請されたのではないか。「若紫」系統にはない女の微細な心理描写があり、また源氏の色好みが全て成功裏に終はつてゐないことにも注目すべきだ。「玉鬘」系統は外伝としての性質を持ち、王朝物語の絵空事を脱却した深みを帯びてゐる。
 「若菜」から「雲隠」までは因果応報、栄枯盛衰、生者必滅の思想が強く感じられる。これ迄の物語を再構築し、反転させる「若菜」の筆力が凄い。かつての源氏が犯した過ちが自分に降り掛かつてくる。これは栄華を誇つた藤原道長以後の貴族社会衰退の気分を反映したものと思はれ、その隙間に仏教思想が入り込んできた為であらう。
 「宇治十帖」は出家を願ふ薫が宇治で運命の女たちに邂逅する物語で、極めて仏教色が濃い。源氏の性格を受け継ぐのが匂宮であり、薫との対比に恰好の存在だ。源氏の陰で歯痒い思ひをした人々の内面を代弁する意味でも薫の性格は彫りが深い。また、大君、中君、浮舟といふ似姿を追ひ求めるといふ趣向は源氏の愛の展開形でもある。だが、何よりも狐疑逡巡する薫の心理描写と悲劇的人物像は時代を超越してをり、『源氏物語』の素晴らしさは「宇治十帖」に尽きると云ひたい。
 『源氏物語』が通して描いたのは何であつたかを述べることは難しい。矢張り何時の時代も変はることのない男女の愛の形を描いた作品であるとは云へるだらう。『源氏物語』が特別な点は男よりも女を描ききつた点にある。特に古代においては『源氏物語』の存在が日本文化に決定的な影響を与へた。嫋やかな日本女性の世界に誇るべき美質を描いたことを高く評価したい。 [☆☆☆☆]


『桐壺』

 第一帖。光源氏の出生を物語る。後見人がないにも拘はらず美貌により桐壺帝の異常なまでの寵愛を受けた更衣は、周囲の嫉みにより命を縮めた。更衣の死後もその姿を忘れられない帝は、更衣の忘れ形見を格別に愛でる。類ひまれな才能を示す容姿端麗の光源氏に世の人々は将来を嘱目する。帝はやがて更衣に似てゐると評判の藤壺を側に置くことになるが、記憶も残らぬ亡き母の面影に焦がれ、藤壺への憧憬を募らせる光源氏。あやふい思慕による禁断の愛を暗示する序章だ。臣籍降下で源氏を名乗るやうになつた光源氏の微妙な立場こそ、この壮大な物語の光と闇を織りなす核心であるのだが、高麗の人相見による予見が周到なだけに、この帖が執筆途中で書き足されたといふ説は充分頷ける。続く「帚木」まで年月が空くが、帖の間の断絶による暗示的かつ複視的な物語構成は『源氏物語』の深みである。[☆☆]

『帚木』

 第二帖。世に名高い「雨夜の品定め」が光源氏、頭中将、左馬頭、藤式部丞により行はれ、自らの女性遍歴を交へ乍ら理想が行き詰まる様と本の一寸した感情の掛け違ひで味はふ儚い男女の愛の成り行きがしみじみと語られる。しかし、ひとり源氏のみは己が理想と恋ひ焦がれる女への想ひを馳せる。後半は昨夜の談義が気に掛かる源氏が、身分乃至経済的に中の品に該当する女とは実際どのやうなものだらうと興味本位で迫る場面となる。強引に夜這ひをするが、頑に身分の違ひを理由に身を委せようとしない空蝉。思はぬ拒絶に却つて恋心を抱く源氏は手練手管を用ゐるが、その後も空蝉に隙はない。冒頭の叙述や半ばで含みをもつて提示される伏線など『源氏物語』の真の始まりに相応しいが、挿入説も否定出来ない。「雨夜の品定め」における女性論は多様な観点で語られてをり、理知的な方便や結論を避け、もののあはれに徹する趣は時代を超えた深みを帯びてゐる。[☆☆☆]

『空蝉』

 第三帖。空蝉の弟である小君を頼みに折を見計らつて再び寝屋に夜這ひを掛けた源氏だが、運悪く空蝉の夫伊予介の娘軒端が居合はせる。気配を察した空蝉は衣だけを残して逃げ去る。取り違へた源氏は軒端を巧く取り繕つて急場を凌ぎ、空蝉の衣だけを取つて恨めしく退散する。蝉の抜け殻に掛けた歌は即妙である。空蝉も源氏の想ひに打たれて千々と心乱れる。「帚木」の続きであるが、帖の分かれ目が不自然である。[☆]

『夕顔』

 第四帖。夕顔が咲く見窄らしい家に住む女に唯ならぬ風流を感じた源氏は周辺を従者惟光に調べさせる。雨夜の品定めで頭中将が語つた常夏の女ではないかと勘ぐつた源氏は一方ならぬ想ひを寄せるやうになる。別荘に連れ出すことに成功するが、素性を明かさない嗜み深い夕顔に源氏は情愛を燃やす。処が宵深く物の怪に憑かれたのか―一説では愛人にして間もない六条御息所の怨念とされる―謎の怪死を遂げて仕舞ふ。狼狽する源氏は歎き崩れ、醜聞も恐れず野辺送り迄行ふ。源氏は夕顔の子の存在を知るのだが、玉鬘篇を用意する周到な伏線となつてゐる。最後に夫と地方に下ることになつた空蝉と振り切れない感情を交はす。空蝉と夕顔は色好みの源氏に愛されながらも、結ばれることのなかつた忘れ難い女性たちで、特に佳人薄命を絵に描いたやうな夕顔の印象は格別である。「帚木」三帖は『源氏物語』外伝として読者層の要望に応へて成立したのだらう、色好みの繊細な哀愁と情愛の深さが描かれた連作だ。[☆☆☆]

『若紫』

 第五帖。病を患つた源氏は山に加持祈祷に行く。その地で恋慕する藤壺の面影を帯びた少女を垣間見る。それもその筈少女は藤壺の兄兵部卿宮の娘なのだ。余命幾許もない祖母の尼に育てられる少女を引き取ることを願ひ出るもあしらはれるが、源氏は倒錯した想ひと後ろめたさを感じつつ少女への執心を募らせる。暫く後、最愛の藤壺が体調を崩す。源氏との子を妊つたのだ。禁断の愛を直隠す藤壺は源氏を牽制するより他はない。やがて祖母が亡くなり、身寄りのなくなつた少女を兵部卿宮が引き取るといふ。この期に浅ましくも源氏は少女を連れ出し、逢へぬ藤壺の似姿として少女を好み通りの女に育てようと企む。光源氏の物語とも紫の上の物語とも呼ばれる『源氏物語』の発端を描く最も重要な帖で、父帝の寵姫藤壺との姦通、その藤壺に似た年端も行かぬ少女を養育するといふ物語の根幹を提示する。物語はこの帖から書き起こされたに違ひない。生い立ちで権力と愛の栄達を阻まれた源氏が、絶世の美貌を武器に間隙を抜けて栄進することこそ物語の原動力と云へる。[☆☆☆]

『末摘花』

 第六帖。夕顔の死が忘れられない源氏は宮廷にはゐない中の品の女性にも興味を抱き続ける。そんな折、ある命婦から常陸宮の娘が零落してひつそりと暮らしてゐることを聞かされた源氏は懸想を仕掛けてみるが、奥床しいのか風流の心得がないのか反応が丸でない。頭の中将も競合をするが、両者共に手応へがなく、時間ばかりが経過し苛立ちを覚える。やうやう恥じらう女に迫ること相成つたが、余りの醜さに驚愕する源氏。鼻の赤いのを末摘花に譬へたのは意地悪いが、古風で引つ込み思案の女に不憫の情を起こして関係を続け、支援を惜しまない。「帚木」三帖同様、明きらかに後から挿入された外伝だ。滑稽な要素が多いが、源氏の情愛と懐の深さを然り気なく描いた良さがある。[☆]

『紅葉賀』

 第七帖。朱雀院行幸の試楽で舞ふ源氏の姿は、皆を嘆息させるほど美しい。しかし、正室弘徽殿女御だけは源氏贔屓に嫉妬を隠さない。愛する藤壺は抗し難い情を抱くが、秘密の露見を恐れて平静を装ふ。遂に藤壺が源氏の子を出産する。桐壺帝はかつての源氏に似て美しいと無邪気に喜ぶが、源氏と藤壺は生きた心地がしない。藤壺は源氏との関係を断つ決意をする。藤壺の冷淡を受け、心の隙間を埋めるため源氏は幼い紫と遊び興じる。叶はない愛が見出した逃避故に哀切を滲ませた件だ。桐壺帝は藤壺を中宮に、源氏を宰相にする一方で、弘徽殿女御との子に譲位を考へる。帖の後半は、好色な老女との滑稽なやりとりで、頭の中将が加はり、悪ふざけを行ふ。良き理解者であり諌め役でもある中将との競ひ合ひは微笑ましい。[☆☆☆]

『花宴』

 第八帖。桜の宴が催された後、酔心地の源氏は藤壺の住まう周辺を徘徊するが、厳重に閉ざされてゐる。魔が差したのか、反りの合はない弘徽殿の渡りに彷徨ひ、愛らしい女に云ひ寄るが、相手が源氏と知り満更でもないやうで関係を持つに至る。明け方が迫り、名を告げる機会を失したまま、扇だけを取り交はして別れる。源氏は朧月夜に契つた女の素性を右大臣の六の君ではないかと勘ぐる。不用意には連絡も取れぬ間柄故、手管を使つてやうやう女と再会を果たす。六の君は後の朱雀帝である春宮への入内が決まつてをり、弘徽殿女御と右大臣一派による源氏左遷への伏線となる。自失の源氏が冒す綱渡りと、朧月夜との浪漫的な情趣に彩られた出会ひが、あはれを催す。[☆☆☆]

『葵』

 第九帖。桐壺帝が退位し朱雀帝の世になつた。源氏は元服時に妻合はされた左大臣の娘とは気が置けて長年馴染めないままだ。お忍び歩きにも平静を装ふ葵とは打ち解けなかつたが、遂に妊る。しかし、運命の悪戯か、葵は斎院御禊の見物に出掛けた際に六条御息所の車と場所取りで一悶着を起こす。六条御息所は長らく源氏の愛人であつたが、年も離れてをりかつての入れ込みがない。体裁を傷つけられた御息所は怨念で葵を苛む。男児を出産するも葵はやがて絶命する。嘆く源氏、御息所との間柄も修復不能となる。その後、紫を正妻に迎へることにするが、戸惑ふ紫がいぢらしい。睦むことのなかつた葵の病を労り、死後は出家まで思ふ深い悲しみに源氏の情愛深さを印象付ける。稀代の色好みは底なしの愛情に充ちてゐるのだ。帖に漂ふのはもののあはれ。[☆☆☆]

『賢木』

 第十帖。六条御息所は斎宮となつた娘と伊勢に下ることを決意する。趣味が良く高雅な六条御息所を気に掛けつつも、源氏は為す術がない。この年桐壺院が崩御する。院の死によりこれ迄意識せられなかつた政治背景が浮上する。故院に愛でられた源氏の威光に歯痒い想ひをしてゐた弘徽殿女御は今や嫡子朱雀帝を後見する大后だ。源氏と密接な間柄で結ばれてゐた左大臣家―頭の中将や亡き葵―は故院といふ後ろ盾を得てゐたが、均衡が崩れ、右大臣家出の大后の権勢に圧倒される。無常を感じる源氏だが、一縷の望みをかけて最愛の藤壺に迫る。しかし、藤壺の意志固く、院の一周忌に突如として出家し、我が子の将来を案じつつも大后の圧力や源氏の執心から逃れる。失意の源氏は朧月夜との危険な逢瀬を繰り返す。朱雀帝も感づいてゐるが、源氏の人徳に気後れしてゐる。遂に右大臣に現場を見咎められ、報を受けた大后の怒りが絶頂となる。源氏追放の策謀がかくして始まる。単なる色好みではなく、『伊勢物語』や菅原道眞の生き様に通ずる物語としての奥行きをを与へる重要な帖。背後に見え隠れするのは藤原氏の存在だ。[☆☆☆]

『花散里』

 第十一帖。 かつて契りを交はしたが、近年ご無沙汰になつてゐた花散里を久々に訪ひ、しみじみと昔語りをする。浮気だが情愛細やかな源氏が描かれる。以後、源氏を後援し、物語で重要な役割を果たす花散里の人物像を紹介した物語中最も短い帖。[☆]

『須磨』

 第十二帖。大后の不興をかつた源氏は追放を受ける前に、都落ちをし隠遁することで切先を和らげやうとする。密かに関係の深い人々との別れを涙ながらに済ます源氏。いつ帰れるとも知れぬまま留守を紫に託し、惟光ら僅かな従者を連れて須磨の片田舎へ出立する。源氏からの便りに偲び泣きをする都の人々。源氏の人望の厚さが窺はれる。立場を顧みずに源氏の元を唯一人訪ふ頭中将の美しき友情。海で禊を行ひ、源氏が無実を神々に訴へると恐ろしい嵐に見舞はれ、不穏な様相を残したまま帖を終へる。贈答される歌の数が最も多い帖で、全795首中48首と群を抜き、歌物語としての側面を覗かせる。和漢の出典を縦横に駆使し、咎を受けた貴人らの流謫の哀切を織り込んで歌に託す。作者の高い教養が示された『源氏物語』の白眉である。[☆☆☆☆]

『明石』

 第十三帖。猛烈な嵐が続く中、故院の霊が須磨を立ち退くやう源氏に示唆する。嵐が止み、運命に導かれた明石の入道が来訪する。入道の好意で源氏は即日舟で渡り、都に劣らず風流を好む明石での生活を始める。入道は密かに娘を源氏に嫁がせる野望を抱き、逆境に置かれた源氏の心に付け入り唆す。明石の君は親の強引な手引きに戸惑ふが、この愛は宿命付けられたものなのだ。都では不吉な事件が頻発し、元の右大臣が死去、朱雀帝らも病を患ふ。故院の怒りを恐れ、遂に源氏は召還される。懐妊した明石の君の嘆きは一方ならない。源氏は苦しい境遇を慰めて呉れた明石の君を都に迎へることを心に誓ひ、朝廷に復帰する。「若紫」に伏線があるやうに、当初より構想されてゐた運命に翻弄される愛の物語で、不遇時の揺らぐ心理を絶妙に描く。 [☆☆☆]

『澪標』

 第十四帖。朱雀帝は病を患つたことから譲位を決心する。源氏と藤壺との子冷泉帝が即位し、元の左大臣を太政大臣に擁して源氏の栄華が確約される。そんな折、明石の君が女児を出産し、源氏の喜びもひとしほだ。源氏は明石の君と姫君を呼び寄せる準備を進めるが、紫との間に隙間風が吹き始める契機となる。斎宮の任期満了で、伊勢に下つてゐた六条御息所も帰京した。再会を果たした源氏だが、六条御息所は死期が迫り、娘の後見を源氏に頼む。間もなく斎宮を引き取るが、朱雀院が後宮へと望んでゐたにも関はらず、源氏は冷泉帝への入内を画策する。苦難に続く栄光の物語であるが、その分深みに欠ける。[☆]

『蓬生』

 第十五帖。源氏の須磨明石時代は、寵を受けてゐた女たちにとつても辛苦の日々であつた。源氏の他に頼れる者がゐない末摘花は困窮に堪へ続けた。宮廷に復帰した源氏がやうやう訪つた時、零落れても名家の誇りを守り、源氏をひたすら信じて待つた末摘花に心打たれる。以後、援助を惜しまず、格別の引き立てを受けるやうになつた。かつては無風流な醜女に描かれるだけだつた末摘花の純朴な愛に、名うての色好みも感じ入るといふ美しい物語。苦難に当たつて人は本当の美しさに気付くことがある。[☆☆☆]

『関屋』

 第十六帖。夫と共に常陸に下つてゐた空蝉が帰京の途中、源氏の一行と擦れ違ふ。源氏はかつての小君との再会を果たし、便りの交換を託すが、勿論それ以上の進展を期待してのことではない。その後、夫に先立たれた空蝉は、義理の息子に懸想を仕掛けられると逃げるやうに尼になつて仕舞つた。実は態度と裏腹に空蝉の心の中では源氏への想ひは大きいのだ。多くの女を描いた『源氏物語』だが、逡巡する女空蝉の心の襞に迫る深みのある帖だ。空蝉は作者紫式部自身の投影に最も近いとされるだけに興味深い。[☆☆☆]

『絵合』

 第十七帖。朱雀院の無念を余所に、源氏と藤壺の強引な協議により冷泉帝のもとに斎宮が入内するが、帝は直ぐには馴染まず、正室であり権中納言―もとの頭の中将―の娘である弘徽殿女御を愛でてゐた。ところが、絵に対する関心から斎宮と睦むやうになる。危機感を抱いた権中納言は稀少な絵を取り寄せ、帝の寵愛を取り戻さうとする。高じて宮廷は絵の優劣合戦に染まる。この絵合はせにおいて、一番に人々の胸を打つたのは源氏が須磨明石時代の侘しい心象を描いた絵であつた。転じて学問清談が語られる。「いたう進みぬる人の命さいはひと並びぬるは、いと難きものになむ」とは名言だ。[☆☆]

『松風』

 第十八帖。二条院の増築が完成し、花散里を住まはせ、更には明石の上を呼び寄せようとする。生地を離れる不安と父入道を残して上京する侘しさで思ひ悩むが、入道が所領地にある大堰山荘を設へてくれたことで、涙ながら上洛の決心をする。源氏は紫の上に憚りつつやうやう明石の上を訪ひ、姫君とも初対面して感慨は並大抵ではない。二条院に戻つた源氏は紫の上に姫君の養育を相談する。紫は複雑な心境だが、生来の子供好きもあり承諾する。多情故に取り巻く女たちの歎きは尽きない。[☆☆]

『薄雲』

 第十九帖。源氏は明石の上を説得して姫君を二条院で育てることにした。愛娘との別れの辛さに打ち萎れる明石の上だが、娘の将来の為を思ひ決心する。姫君は紫の上の寵愛を受けて養育される。女たちの複雑な胸中が入り乱れる。この年、宮廷では疫病が流行、頼みにしてゐた太政大臣と、最愛の想ひ女藤壺が次々と崩御する。藤壺の死は物語の大きな転機でもある。源氏の止まぬ色好みは藤壺への叶はぬ思慕からの逃避であつた訳で、死別により源氏を繋ぎ止めてゐた糸が切れる。こともあらうに冷泉帝へ入内した斎宮梅壺に浮気心をちらつかせる。藤壺の死と不穏な世を思ひ、僧都が冷泉帝に出生の秘密を漏らす。動揺した冷泉帝は、本当の父のこれ迄の不遇に心を痛め譲位を仄めかす。きっぱりと退けたものの、源氏は秘密が知れたことを訝る。[☆]

『槿(朝顔)』

 第二十帖。斎院を辞してゐた朝顔に久々に再会し、恋心を再燃させた源氏。由緒正しき出自の朝顔は源氏の正妻候補として度々噂された相手であり、実は相思相愛の関係でもあつたが、源氏の過ぎた色好みを知るにつれ、六条御息所の二の舞になることを恐れて求愛を退け続けた過去がある。思慮深い朝顔は源氏に靡かなかつた数少ない女性だ。執拗な源氏の懸想も不首尾に終はる。源氏のこれ迄の浮名を詰る紫との愛も隔たりが生じてきた。すると、夢に藤壺が現はれ、秘密が漏れたことを恨む。死後の世で結ばれることを願ひ項垂れる源氏。[☆]

『少女』

 第二十一帖。葵との息子夕霧が元服を迎へた。しかし、「才を本としてこそ、大和魂の世に用ゐらるる方強う侍らめ」と思ふ所があり、夕霧に親の七光りを与へず、大学での勉学を課す。夕霧は位が低いことに不満だが、学問で頭角を顕す。その夕霧には内大臣―もとの頭中将―の娘で幼馴染みの雲居雁への淡い恋心があつたが、運悪く、事が内大臣に発覚して仕舞ふ。梅壺立后の一件もあり、面白くない内大臣は二人の仲を裂く。嘆く夕霧は、失恋を紛らすのに惟光の娘五節舞姫へよろめいたりする。失意の夕霧とは対照的に、源氏は六条院の造営に着手する。春夏秋冬の四季に分けた御殿を設へ、春には紫の上、夏には花散里、秋には梅壺(秋好中宮)、冬には呼び寄せた明石の上を住まはせる。源氏の栄達と夕霧の煩悶が重なる無常感を漂はせた帖だ。[☆]


「玉鬘」十帖

 『玉鬘』『初音』『胡蝶』『蛍』『常夏』『篝火』『野分』『行幸』『藤袴』『真木柱』の十帖。美貌の玉鬘を主人公に据ゑた一齣。精緻な心理描写を加へ、六条院の季節の移ろひを重ねた奥行きのある物語構成は、作者の成熟を示してゐる。十帖に続く『梅枝』では、玉鬘を巡る狂乱の日々が夢か幻のやうに一切触れられてゐない。これは玉鬘十帖が後に纏めて挿入されたことを如実に示す証である。十帖を中心とする「玉鬘系統」では源氏がおいしい思ひをすることは決してない。「若紫系統」における完全無欠の色好みとして描かれる源氏とは対極的だ。「若紫系統」を明とするなら、「玉鬘系統」は暗である。「玉鬘系統」は出来過ぎた夢物語のやうな源氏像に奥行きと現実味を与へるといふ明確な意図を持つて構成された『源氏物語』外伝なのだ。

『玉鬘』

 第二十二帖。死に別れた夕顔との思ひ出が忘れられない源氏は、撫子と呼ばれてゐた忘れ形見の行方が気に掛かつてゐたが、夕顔の死後源氏に仕へてゐた右近が偶然再会を果たすことで、物語は急展開する。玉鬘のそれ迄の半生が描かれ、筑紫の國で育ち、肥後の大夫の監による横暴な求婚を逃れてきた顛末が語られる。源氏の下に引き取られる玉鬘は物語中最も美しい女とされる。実父である内大臣にはこの一件は伏せられた儘で、玉鬘を巡る妖しくも儚い駆け引きが幕を開ける。玉鬘の為に配置された「帚木」三帖に始まる伏線が繋がる心憎い帖。[☆☆☆]

『初音』

 第二十三帖。正月、源氏は六条院の女たちに挨拶巡りをする。紫の上を筆頭に、花散里と共に住まふ玉鬘を訪ふが、続いて、厚遇されない明石の上を愛でる件は情愛深い。また、末摘花や尼になつた空蝉も六条院に引き取られてゐるのが興味深い。多情だけではない源氏の想ひの深さを描くとともに、空蝉や末摘花の登場する帖が、「玉鬘」十帖を準備しつつ、物語に膨らみを持たせた一連の作品群であつたことを立証する。[☆☆]

『胡蝶』

 第二十四帖。春、紫の上の住む春の御殿は華やかに催しを開いた。源氏の隠し子とされてゐる美貌の玉鬘の存在が明らかになるにつれて、求愛者からの恋文が続々と届くが、源氏はからかひながら品定めに興じる。次第に夕顔の面影が重なり、色好みの性癖が擡げ始める源氏。ある夜、玉鬘の嫌悪をよそに大胆にも添ひ臥すが、一線を越えることはなかつた。これを期に玉鬘の源氏不信が募る。[☆☆]

『螢』

 第二十五帖。源氏の義弟である兵部卿宮は妻を亡くして長く独り身であるので、玉鬘へ熱心に求愛する。からかひ半分に手引きをする源氏は兵部卿宮を玉鬘の側へと案内し、螢を放つてその光で美しい姿を垣間見せるといふ憎い演出で興を添へる。兵部卿宮は一段と玉鬘への思慕に焦がれるが、所詮は蚊帳の外の身だ。後半の文学論は作者の立場が窺はれ興味深い。[☆☆]

『常夏』

 第二十六帖。玉鬘への怪しからぬ恋慕を抱く源氏だが、和琴を教授し次第に睦むやうになる。しかし、実父内大臣との関係を憚つて自制する源氏の懊悩も困つたものだ。一報、玉鬘の行方を探してゐた内大臣は似たやうな境遇の近江君を見付け出したが、卑しく育つたが故に粗忽さが目に余る。方々で笑ひ者にされるのだが、源氏に見出された玉鬘を引き立てる為に内大臣を出しに使ふのは、作者も意地が悪い。[☆]

『篝火』

 第二十七帖。近江君の良からぬ噂を聞き、玉鬘は源氏に優待される我が身の幸運を感じ始め、琴を教はり乍ら次第に源氏に心を許すやうになる。琴を枕に添ひ臥す関係は実に奇妙で、越えない一線が却つて艶である。[☆☆]

『野分』

 第二十八帖。野分吹き荒れる季節、六条院を訪れた夕霧はこれ迄一見したこともない紫の上を混乱の最中に垣間見る。抜きん出た美貌に魅了されかつ動揺する夕霧。また、親娘と思ひ込む源氏と玉鬘が戯れる艶な情景を目撃し訝る夕霧。この帖は雲居雁への想ひ断たれた夕霧による六条院の女たちへのよろめきと品定めに焦点が当てられる。[☆]

『行幸』

 第二十九帖。冷泉帝の行幸があつた。玉鬘も誘はれ見物に出る。車から見た実父や求婚者らとは比較にならないのが、源氏に似た冷泉帝の面立ちだつた。それを見て取つた源氏は玉鬘を尚侍として出仕させようとする。遂に源氏は内大臣に真実を打ち明け、近年の確執をも解消しようとするのであつた。父娘の対面を果たすが、玉鬘の運命は宮仕へを絡めて急転し始める。[☆☆]

『藤袴』

 第三十帖。玉鬘は秋好中宮や弘徽殿女御と競合することを好まず、出仕を憂鬱に思ふが、玉鬘を影響下に置きたいと願ふ源氏の狙ひには抗へない。血縁でないことを知つた夕霧は玉鬘を意識するやうになり云ひ寄るが、疎まれて後悔する。一方、執心だつた柏木は血縁による兄弟愛に目覚める。玉鬘の求婚者たちは挙つて恨み言を寄せるが、玉鬘は終始紳士的だつた兵部卿宮にだけは返事をする。もうひとりの求婚者鬚黒大将は、内大臣が弘徽殿女御のことを慮つて玉鬘の出仕を快く思つてゐないことを知り、阻止出来ないかと企みを張り巡らす。[☆☆]

『真木柱』

 第三十一帖。玉鬘の運命が急転する。鬚黒大将が手引きを取り付け玉鬘の寝屋に忍び込み強引に関係を結んで仕舞つたのだ。事件は帖の間の出来事として語られず、突如として状況が一転する手法は劇的な効果をもたらしてゐる。不祥事に源氏は平静を取り繕ひ、鬚黒大将を婿として丁重に扱はうとする。一方、内大臣は事の成り行きを寧ろ歓迎する。鬚黒大将の正妻北の方は気の病を患つてゐたが、玉鬘の一件では正気を失ひ鬚黒大将に灰を浴びせる狂態を演じる。病を哀れんでゐた鬚黒大将も見捨て勝ちになるが、見兼ねた父式部卿宮が北の方とその子らを引き取る。鬚黒大将を慕つてゐた最愛の娘真木柱との急な別れは心を痛める件だ。父の帰りを待たうとする真木柱の健気さが印象的だ。周囲を憚つて一旦は玉鬘の出仕を認めた鬚黒大将だが、冷泉帝の動向に危機を抱き隠すやうに玉鬘を囲ふ。やがて、玉鬘はひっそりと出産をし、表舞台から姿を消す。儚い運命は母夕顔の生き様と何処か重なる。[☆☆☆]


『梅枝』

 第三十二帖。朱雀院の子である春宮へ明石の姫君が入内することになり、準備に余念がない源氏。光り輝く源氏と明石の姫君の威光に競合者たちは入内を控へる始末だ。一方、夕霧との仲を裂かれた雲居雁は鬱ぎ込んだままで、内大臣も気に病み翻意し始める。失意の日々を過ごす夕霧に源氏は軽卒な浮気心は起こさないやう教訓を垂れるが、何とも片腹痛い。やがて何処からともなく夕霧の新しい相手の噂が流れ、雲居雁は夕霧の心変はりを恨む。[☆]

『藤裏葉』

 第三十三帖。たうとう内大臣が雲居雁と夕霧の婚儀を認めた。雲居雁の許に通ふ夕霧に喜びが溢れてをり、微笑ましい。いよいよ明石の姫君の入内となり、晴れやかな儀式が行はれた。紫の上の計らひで実母明石の上が付き添ふ。そして、紫の上と明石の上の対面もあるが、両者とも相手の美質を認め合ひ、以後睦むやうになる。得難い女の友情だ。翌年には四十を迎へる源氏の祝賀に先立ち准太上天皇の待遇を得た。若き頃の「帝王にあらず、臣下にあらず」といふ予見を実現したのだ。内大臣も太政大臣になり、夕霧も中納言となる。かくて、一族は栄華の極みに至り、光輝く源氏の物語は大団円で一区切りをつける。[☆☆]


『若菜』上

 第三十四帖。朱雀院は出家を思ひ立つが、娘の女三宮に後見人がゐないのが気掛かりだ。夕霧に縁付けようかとも思ふが、先に雲居雁との熱愛を成就したばかりで、寧ろ威光輝く父の源氏に嫁がせるのが安泰と考へる。源氏は好き心からこの縁組みを承諾して仕舞ふ。この軽卒な色好みが『源氏物語』の落日の始まりとなるのだ。降つて湧いた縁組みに動揺を隠せないのは紫の上だ。女三宮は格式では最高で年も若い。絶望する紫の上の心中に変化が生じるが、源氏は気が付かない。いざ六条院に降嫁して来た女三宮は年齢不相応に幼く、張り合ひがない。失望した源氏は婚儀を後悔し、次第に疎むようになる。周囲からは非難の噂が漏れ出すが、女三宮との縁組を密かに期待してゐた柏木は現状に憤る。そんな折、唐猫の悪戯で御簾が開いて柏木は女三宮の姿を見る。止み難い恋情が燃え盛る柏木の危険な思慕を秘めて上巻は結ばれる。源氏の四十賀で玉鬘が若菜を献上し、子供たちを源氏に会はせる件、朱雀院の出家で逢瀬が可能になつた朧月夜への恋の再燃、懐妊と出産を聞いて届いた祖父明石入道の手紙で生ひ立ちを知る明石女御の件など、『若菜』は栄達の物語を反転させる為にこれ迄の物語を丁寧に再構築する。『源氏物語』中最も長大な帖だが、破綻がないのは圧巻だ。[☆☆☆]

『若菜』下

 長大な「若菜」を上下に分け、下巻を第三十五帖とし、「雲隠」を数へずに全五十四帖とする方法があり、現在では一般的だが、「雲隠」を重視し、ここでは「若菜」を分けて数へない。女三宮への想ひに苛まれる柏木はせめてあの猫だけでもと所望し、手を尽くしてわがものとする。後には姉妹の女二宮(落葉)をも娶るが心の隙間は埋まらない。4年の歳月が流れ、冷泉帝が退位した。紫の上が厄年に病に冒される。折しも源氏が過去の女性遍歴を語つた夜で、六条御息所の怨霊が再び現れたのだ。源氏は看病の為に余念がない。その間に小侍従の手引きを取り付けた柏木が、女三宮の元に忍び込み強引に密通を遂げる。女三宮は絶望し、以後柏木を疎む。紫の上は奇蹟的に一命を取り戻すが、『源氏物語』の主人公紫の上が表舞台から去るといふ設定に着眼しなければならない。やがて、女三宮が懐妊したことに気付き訝る源氏は、女三宮の不注意により柏木からの恋文を発見して仕舞ふ。正しくこれは源氏と藤壺の密通の罪過が己に降り掛かる転化である。『若菜』は光輝く源氏の物語を裏返す。源氏から最も目を掛けられ寵愛されてゐた柏木は、次第に過ちの重大さに圧し潰される。源氏に事が露見したことを確信した柏木は、心痛で死の床に就いて仕舞ふ。[☆☆☆]

『柏木』

 第三十五帖。死へと急ぐ柏木だが、女三宮への未練が残る。女三宮が男児を出産するが、我が子として育てようとする源氏の心中は苦悩に満たされる。朱雀院が隠密で駆け付けたが、自責の念を募らせ衰弱する女三宮は出家の意志を申し出る。源氏は若い女三宮が出家することを惜しむが、あはれを催した朱雀院の意向で即座に戒を授ける。親友夕霧が柏木の今際の際に遺言を聞く。源氏の不興を買つてをり、この咎が許されるなら夕霧に感謝したいと云ひ残し、絶命する。夕霧は夫の最期に立ち会へなかつた落葉を訪ひ慰める。玉鬘十帖以降中心的な役割を担つてきた柏木の死は華やかな物語を暗転させる。[☆☆☆]

『横笛』

 第三十六帖。人物であつた柏木の死を悼む人が絶えない。関係が拗れる前は柏木を最も重んじてゐた源氏も一周忌を手厚く供養するが、すくすくと育つ薫を見て源氏の心境は複雑だ。夕霧はその後も落葉を繁く訪ね、怪しからぬことに懸想を仕掛ける。しかし、父源氏の色好みとは異なり、夕霧は恋の手管に疎く、落葉の操も固い。夕霧の好意を頼もしく感じる母御息所は形見である横笛を夕霧に託す。その夜、夕霧の枕辺に柏木が夢となつて現れ、笛を子孫に伝へて欲しいと告げる。夕霧は薫こそ柏木の生き写しと確信し、源氏に遺言と夢の話で探りを入れるが、源氏も夕霧の思惑をかはし、笛を預かる。人格者夕霧が六条院の幼子たちに慕われる件は微笑ましい。[☆☆☆]

『鈴蟲』

 第三十七帖。女三宮の出家の準備が着々と進むが、源氏は未練を断ち切れない。秋の頃、源氏は女三宮の住まふ庭に鈴虫などを放ち風流を効かせるが、女三宮の心境は困惑気味だ。秋好中宮は母六条御息所の霊が罪業に苦しんでゐることを聞き知り、供養の為に出家を願ふ。「若菜」以降の帖は仏教思想の影響が色濃く染込んでゐるのが特徴だ。[☆☆]

『夕霧』

 第三十八帖。学識豊かで堅物とされる夕霧だが、落葉への恋慕止み難く、通ひ詰めた為、次第に浮いた名が流れるやうになる。意を決して落葉の部屋に忍び込むが不首尾に終はる。それ迄、夕霧の好意を頼もしく思つてゐた落葉の母御息所が、事情を知らされ愕然とする。夕霧に真相を正さうと送つた手紙が運悪く、雲居雁に横取りされて仕舞ふ。詰る夕霧だが、時間ばかりが経過する。返事がないことを嘆いた御息所は病状が悪化し、急死して仕舞ふ。自責の念に苛まれる夕霧だが、尚も強引に迫り落葉と関係を結ぶ。嫉妬に怒り狂つた雲居雁は実家に帰つて仕舞ふ。色恋の達人源氏とは異なり、夕霧の手際の悪さが目立つが、これが現実であり、御伽噺のやうな源氏の性愛とは一線を画してゐることに注目したい。[☆☆☆]

『御法』

 第三十九帖。大病を患つて以来、死期を間近に感じる紫の上は出家を願ふが、今生の別れを思ひ切れない源氏の執心が為に許されない。遂に消えるやうに亡くなる紫の上。源氏は遺骸から離れようとしない。夕霧は生前以上の美しい紫の上の姿に驚嘆する。『源氏物語』といふ題名は後世自然に付いたもので、別に『紫の物語』とも云はれて来た。少女の時から養育し、理想の女に仕立て上げ妻にするといふ特異な愛の物語は、「若菜」以降、表舞台から退いてゐた紫の上の死により、事実上の終焉を迎へたと云へよう。[☆☆]

『幻』

 第四十帖。紫の上を失つた源氏は生き甲斐を無くし、失意の日々を送る。既に出家の意志を固めてはゐるが、源氏の栄華を頼つて生きてゐる人々の余生が忍びなく思ひ切れない。一周忌の後、源氏は身辺の整理を始める。手紙を破棄する中に須磨時代に紫の上と交はした手紙だけは想ひが去来し、平常の心ではゐられない。手紙を焼かせる件は万感迫る。そして、ふっつりと長大な絵巻物は空となる。[☆☆]

『雲隠』

 第四十一帖。帖名だけで、本文がない。題名が源氏の出家を暗示するが、全てが謎に包まれ、様々な解釈が可能だ。古注には源氏の死も語られる為に秘本とされたといふ伝説まである。近世になると「若菜」を上下に分け2帖とし、「雲隠」を数へないのが通例となつた。しかし、それは『源氏物語』の皮相な読み方だ。長大な『源氏物語』は瑣末な事柄を丁寧に語る反面、「桐壺」後の源氏と藤壺の不義や「藤袴」後の玉鬘の悲運など、重要な事件を意図的に語らない。そして、最たるものが源氏の最期を全く描かず、帖名だけで暗喩する「雲隠」だ。空白に語らせる手法は『源氏物語』の蘊奥だ。連続した一連の物語ではない。独立した巻の集積が『源氏物語』である。「雲隠」といふ二文字だけで、遠大な世界を示す古人の凄み。[☆☆☆]


『匂兵部卿』

 第四十二帖。冒頭で源氏の死後の物語であることが述べられ、源氏の威光が忘れ難く語られる。源氏と紫の上に殊更可愛がられた明石中宮の子である匂宮と、柏木と女三宮の不義の子である薫の成長が描かれる。宮中の評判は専らこの二人が独占してゐる。匂宮は自由恋愛を好む浮ついた心持ちの持ち主で、源氏の性格を継いでゐると云へる。一方、薫は出生の秘密をそれとなく知つてをり、母に倣ひ早々と出家して仕舞ひたいといふ厭世観に囚はれてゐる。その為、恋にも消極的だが、冷淡な態度に却つて女たちは恋ひ焦がれるやうだ。[☆☆]

『紅梅』

 第四十三帖。柏木の弟に当たる按察大納言は先妻との間に二人の娘があり、上は今上帝の春宮に嫁がせ、下は匂宮に嫁がせたいと考へてゐたが、肝心の匂宮は、按察大納言の後妻である真木柱の連れ子―螢兵部卿宮との子―である宮君に執心だ。源氏に似て浮気性の匂宮には八宮の姫君との浮名もあり、真木柱の心痛が描かれる。源氏生前の登場人物の後日譚と、宇治十帖への伏線を張る短い帖。[☆☆]

『竹河』

 第四十四帖。玉鬘の後日譚。鬚黒大将死後、傾き出した家運を立て直す為、二人の娘の縁組には慎重になる玉鬘だが、特に姉の大君には今上帝や冷泉院からの縁談があり大いに悩む。かつての悲恋の償ひともなるからだらう、冷泉院への参院を決めるが、意に反して院の寵愛が厚く、異母姉である弘徽殿女御から恨まれる玉鬘たち。しかも、かつて大君に求愛した人々は出世をし、全てが裏目に出て歯痒い思ひをする玉鬘。主筋から大きく離れてをり、記述の相違などからも偽作説が払拭出来ない帖だ。[☆☆]


「宇治」十帖

 『橋姫』『椎本』『總角』『早蕨』『宿木』『東屋』『浮舟』『蜻蛉』『手習』『夢浮橋』の十帖。逡巡する薫を主人公に据ゑ、浮世か幻かの境界やうな宇治を舞台に、仏教色を強めた物語が連綿と綴られる一齣。登場人物が絞られて緊密な物語設定が構築されてをり、心理描写に深みがある。

『橋姫』

 第四十五帖。自らの出生に悩む薫は出家への思ひを抱いてゐるが、桐壺院の子のひとり八宮が不遇の為、遁世してゐる話を聞きおよび関心を持つ。八宮は政争に翻弄され、妻にも先立たれ、残された二人の姫の養育の為、出家願望も果たせず宇治に隠遁してゐた。世俗から隔たつた聖のやうな晩年を送る八宮に薫は親交を求める。八宮に畏敬の年を抱き宇治に繁く通ふ薫は、何時しか姫君らを垣間見、姉の大君に興味を抱く。取り持ちを買つて出た老女が、薫出生と柏木最期の秘密を知つてゐた。老女より柏木の遺文を受け取つた薫は遂に出生の秘密を知る。厭世観を募らせる薫が宇治に隠棲する姫に邂逅するといふ幻想的な導入は、儚い「宇治十帖」へと斯くも美しく引き摺り込む見事さだ。[☆☆☆]

『椎本』

 第四十六帖。薫は匂宮に宇治の姫君たちの事を報告し、匂宮の恋心を煽つて興じてゐた。匂宮は遂に宇治に来訪する機会を得、姫君たちに和歌を送る。八宮は姫らの将来を憂ひ思ひ悩む。八宮は薫の人徳を見込み姫君らの後見人として死後を託す。八宮は姫らに隠れて生きよと訓戒を与へ没する。匂宮は妹の中君との関係が進展しないことに苛立つ一方、薫は手厚く弔問し、姫君らも信頼を寄せるが、大君は薫の恋心を察すると失望の念を抱く。薫は次第に大君を諦め切れなくなる。八宮の死で物語は不穏さを加へる。薫と匂宮、大君と中君の対比に奥行きがあり、想ひ迷ふ薫の心理描写が深い。[☆☆☆]

『總角』

 第四十七帖。薫は遂に大君の寝所に迫るが、制されて結局何事もなく朝を迎へて仕舞ふ。薫が決定的な強引さを持たず、逡巡してゐる間に好機を逃して仕舞ふことを印象的に描いてゐる。大君は中君の将来を思ひ、薫へ嫁がせたいと考へてをり、四人の想ひが掛け違へて行く。薫は意を決して再度寝所に忍び込むが、勘付いた大君は寝入る中君を残して逃げ隠れ、薫は気まづくその場を取り繕ふ。据ゑ膳をも食らはぬ薫の性格が恋愛において決して成功することはないのだ。薫は匂宮を巻き込んで状況を打破しようとする。匂宮を誘つて忍び込み、中君へと手引きする。首尾よく匂宮は想ひを遂げるが、薫は方はまたもや失敗する。匂宮は中君を溺愛し引き取らうと画策するが、自由恋愛を許される立場になく、外出すら禁じられる。しかも、夕霧の娘である六の君との婚儀が強引に進められ、嘆く大君は病に倒れた。駆付けた薫の腕の中で結ばれることなく息絶える大君。宇治の姫君らの悲運は薫が招いた。だが、薫は縺れた運命の修繕を自力で行へない。薫の意志とは裏腹に行動は躊躇ひ勝ちだ。古代において斯様な性格の主人公を据ゑ、心の襞まで描いた作品はない。[☆☆☆☆]

『早蕨』

 第四十八帖。意志を通す匂宮は中君を引き取る決意を曲げずに実行する。大君亡き後、薫は図らずも過ごしたかつての一夜を想ひ、中君のことを意識するやうになる。くよくよと後悔し、己の判断にすら未練を持つ薫の優柔不断さが描かれる。これ迄以上に中君と親しく接する薫を訝る匂宮。薫の弱く複雑な性格は現代小説の主人公と比べても遜色がない。[☆☆]

『宿木』

 第四十九帖。傷心の薫は予てより持ち上がつてゐた女二宮との縁談を受諾した。中君は匂宮の子を懐妊した。しかし、中君との仲を黙認された匂宮には夕霧の娘六の君との婚儀は避けられなくなつた。浮気な匂宮は思ひの外、愛らしい六の君に惚れ込み、あっさりと中君との蜜月を終はらせる。嘆く中君を慰める薫は掛け違へた運命をくよくよと後悔し、揚げ句には中君に添ひ臥してはよろめきを期待する。だが、他人を傷つけることを極度に恐れる薫には決定的な行動が取れない。匂宮は消えない薫の移り香で中君を詰る。窮した中君は大君に生き写しの女がゐた話を薫にして気を逸らす。身代はりを求めることを浅ましいとは思ひつつも、心惹かれた薫は真相を確かめに宇治を訪れ、その姿を垣間見ては新たな感情を芽生えさす。取り戻せない中君への未練を軸に薫の心は迷走する。[☆☆☆]

『東屋』

 第五十帖。浮舟は八宮に認知されなかつた娘だ。母は常陸介に嫁ぎ、浮舟を大事に育てる。常陸介には財力があり、求婚者は多い。しかし、成婚の間際に常陸介の実子でないと判り、破談となつた過去がある。傷心の浮舟をあはれに思ひ、母は都の中君を頼つて上京し、浮舟の将来を託す。中君は大君に似た浮舟を薫に勧めるが、薫は聖人振つて心変はりの素振りを見せない。そんな折に、中君と若君に会ひに匂宮が来訪し、運悪く浮舟を見付けて仕舞ふ。興味津々で迫る匂宮だが、その場は事なきを得た。慌てた母は浮舟を三条の隠れ家に移させ、出来ることなら薫に添はせたいと願ふ。浮舟の居場所を知つた薫は来訪し、想ひを告白する。意を決して浮舟を抱き抱へ宇治へと連れ去る。遂に行動に出た薫。だが、外聞を気にして浮舟の扱ひを思ひ悩む薫は、仕合はせを掴めない宿命にあるのだ。[☆☆☆]

『浮舟』

 第五十一帖。薫は浮舟を囲つたまま処遇を考へあぐね気長に構へる。一方、匂宮は浮舟を中君が隠したのだらうと恨んでゐたが、やがて薫の噂を嗅ぎ付けた。匂宮は秘密裏に宇治へ向かひ、薫のやうに振る舞ひ寝所に忍び込む。異変を察知した時には既に遅く、周囲は事件発生に困惑する。匂宮は浮舟に添ひ臥す男女の絵を描いて見せるが、人情味のある匂宮の愛の表現に浮舟は惹かれて行く。真相がばれることを恐れる浮舟の様子を、薫は愛の萌芽と読み間違ひ、手元に引き取る決意をする。浮ついた薫の様子に匂宮は焦り、再度宇治へのお忍を敢行する。情熱的な匂宮の愛に傾く浮舟は、抜き差しのならない板挟みに苛まれる。やがて、宇治で匂宮と薫の使者が鉢合はせし、薫は事態が進行してゐることを察し千々と思ひ乱れる。匂宮の裏切り、浮舟の心変はりを恨む一方、中君への恋情も絡めて自分の悠長さや慎重さを責め、今後の対応を逡巡する。厳戒態勢が布かれ、匂宮は浮舟に逢ふことが出来ない。また、進退窮まった浮舟は絶望し、入水して命を断つ考へに捕はれ、不気味さを残して帖は終はる。匂宮の苦悩は源氏の懊悩と大差ないが、流される浮舟の頼りない心境、何よりも相反する複雑な思考を拗らせる薫の心理は古代文学においては異常な深みを帯びてゐる。[☆☆☆☆]

『蜻蛉』

 第五十二帖。浮舟が失踪した。入水したらしい。身内の者が自殺の真相を隠す為に急いで葬儀を済ます。匂宮は事態が呑み込めず困惑する。薫もまた後から異変を聞き、浮舟の突然死は自分の不手際の為だと悔悟する。やがて薫は一連の真相を知り、悶々と自責する。そして、世俗から離れようと訪れた宇治で愛欲の世界へと引き込まれた自分に愕然とする。新しい恋を求める匂宮だが、尚深く浮舟を追慕する有様は源氏の現身のやうだ。しかし、宇治の姫たちに執心し、全てを失つた薫は立ち直れず、中途半端な気持ちを持て余してゐる。最早物語を離れ、人生を懐疑する薫のあはれな姿は孤絶してゐる。[☆☆]

『手習』

 第五十三帖。自殺を図つた浮舟だが、死にきれず、横川の僧都に庇護される。僧都の妹尼は先きに亡くした娘と重ね合はせ浮舟を世話する。物の怪が退散し一命を取り留めたが、死を乞ひ願ふあはれな浮舟。その後、妹尼の娘婿だつた中将が懸想をしてきたため、我が身の悲運に果てがないことを嘆き、逃げるやうに出家する。僧都は宮中に伺候した際に素性の分からぬ女の話を漏らしたところ、薫の耳に噂が伝はる。浮舟の生存を確信する薫。永遠の休息すら赦されない浮舟のあはれな生涯が哀しく綴られる。[☆☆☆]

『夢浮橋』

 第五十四帖。長大な物語の最後の帖である。薫は横川の僧都を訪ね、浮舟との関係を告白する。憐れみを覚える僧都だが、体裁を考へ引き合はせることは躊躇ふ。浮舟は薫からの文を受け取るが、返事を拒む。無念の薫の想ひが巡り乍ら物語はふっつりと途切れる。浮世は夢か幻か、断てぬ想ひに迷ひを重ねて物語は終はる。[☆☆☆]


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