コルネイユ

(Pierre Corneille、1606〜84)

 ルーアン生まれ。イエズス会の教育を受けた後、法律を学ぶが、1629年に上演された喜劇『メリット』の成功で劇作家として登場。演劇を奨励するリシュリューの文化政策とも合致し、コルネイユは数々の喜劇・悲喜劇作品を発表して名声を確立した。1637年上演の悲喜劇『ル=シッド』は空前の当たりをとつた一方で、成功を妬む輩により「ル=シッド論争」―真実らしさがなく、古典的規則からの逸脱もあり、題材も反道徳的で受け入れ難いといふ非難―が引き起こされた。これに応へたコルネイユは次々と心理悲劇の傑作を発表し―三大悲劇『オラース』『シンナ』『ポリュークト』―、悲劇作家コルネイユの黄金時代を築いた。常に新しい手法に挑戦し続けたが、フロンドの乱以降は時代の好みが変化して次第に凋落し、好敵手ラシーヌに株を奪はれて行き、晩年は困窮するやうになつた。


『幻影喜劇』 "L'ILLUSION COMIQUE"

 作品全体が劇中劇といふ類例のないバロック劇の傑作。巧妙な詭計が仕組まれてをり、読了時に解明されると共に、新たな謎を生む。第二の劇中劇が全て創り話なら、第一の劇中劇の信憑性が危ふい。仮に第一の劇中劇も全て虚構なら、劇を眺める父親の真実性も危ふい。作品全体が魔術に掛けらてをり、多義的な解釈が可能である。当時の理解度を越えてゐたであらう前衛的な作品。読んだ印象で、直訳に近い作品名が相応しいと考へた。[☆☆☆]

『ル=シッド』 "LE CID"

 コルネイユ随一の傑作に違ひない。相思相愛で結婚目前であつたロドリーグとシメーヌだつたが、父親同士の諍ひでロドリーグは武勇名高いシメーヌの父親と決闘をする羽目になるといふ絶体絶命の展開。父の命を奪はれたシメーヌは復讐と愛の狭間で地獄の苦しみにもがく。この解決不可能な事態に如何なる決着があるのか、誰しもが固唾を飲むだらう。コルネイユはその都度不安に陥れながら恋人らの愛を高めていく。見事な緊張感を持続しつつ、最後は王のお裁きによる大団円。感情を揺さぶるやうな浪漫的なうねりが押し寄せる名作で、観客から喝采を浴びたのも頷ける。御託はゐらない。[☆☆☆☆]

「ル=シッド論争」

 大当たりした上演に対して、嫉妬による批判が相次いだ。スキュデリによる批判では主に心理の葛藤に真実らしさを見出せない、アリストテレスの規則に違反してゐることを攻撃された。過激さを増すにつれ、遂にアカデミー・フランセーズが事態収束に介入した。公正な分析がされ、そもそも題材選び、主題が良くない、規則違反がある、しかし、魅力があり名声は否定出来ないと取り成してゐる。コルネイユは一時筆を折るが、観客の反応を拠り所にした絶対的な自信を持つてゐた。そもそも『ル=シッド』は悲喜劇と銘打たれてをり、古典的悲劇に当て嵌めての批判は根底から的外れなのだ。だが、この「ル=シッド論争」は批評精神を育み、演劇の進歩に大いに貢献し、フランス古典劇の黄金期の礎となつたことを看過してはならない。

『オラース』 "HORACE"

 「ル=シッド論争」に巻き込まれ一時筆を折つたコルネイユだが、古典的規則に則つた三大悲劇を提げて反対派の口を封じた。その劈頭を飾つたのが『オラース』だ。何れも古代ローマに題材を得て、三一致の法則を遵守する。格調高さにおいても隙はないが、『ル=シッド』以上の限界状態を設定し、心理悲劇を展開する。ローマ人オラースと妹カミーユにはアルバ人の妻サビーヌと許嫁キュリヤスがゐる。国家間の交戦でオラースとキュリヤスは国家を代表して決闘をせねばならなくなつた。国家と名誉に対する私情と友愛の選択に迫られる極限状態で、オラースは前者を選ぶ。キュリヤスばかりでなく妹も殺して仕舞つた男の失つたものの大きさを描く。[☆☆]

『シンナ』 "CINNA"

 『シンナ』には当初「オーギュストの寛容」といふ副題が添へられてゐた。アウグストゥス帝時代のキンナの陰謀を題材にした政治劇の傑作である。ポンペイウスの子シンナは同じくアウグストゥスに恨みを持つ想ひ人のエミリーらと共謀して暗殺計画をいざ実行しようとする。その矢先、アウグストゥス帝より退位の相談を受け動揺する。暴君のまま暗殺するか、退位を静観するかで揺れ、友情と恋に亀裂が生じ、裏切りが芽生える。陰謀が発覚し破滅と思ひきや、アウグストゥスは憎しみの連鎖を断ち切る為に寛大なお裁きで大団円となる。ナポレオンも激賞した名作で、緊迫する腹の探り合ひで息吐く間もない。帝王学の蘊奥が凝縮した珠玉。[☆☆☆☆]

『ポリュークト―殉教者』 "POLYEUCTE MARTYR"

 ローマ時代に題材を得ながらも初期キリスト教迫害と殉教が主題となつた宗教劇で異色作である。キリスト教に帰依したポリュークトは妻ポーリーヌを捨て、弾圧者である妻の父フェリックスに敵対する。折しもかつてポーリーヌに求愛をしたセヴェールの登場で、ポリュークトは妻を譲り、信仰の為に死を望む。宗教、政治、家庭、恋の要素が複雑に絡み合ひ、各々の大切にするものがすれ違ふ。コルネイユは悲劇的限界を描いた後、ポリュークトの殉教によつて降臨した浄化作用が齎されるといふ奇蹟で幕を降ろす。[☆☆☆]

『嘘つき男』 "LE MENTEUR"

 感心する程嘘をつく男で、劇の巧妙さもあつて痛快な作品である。嘘と云つても精緻さに欠け、辻褄合はせもないので、嘘つき男と云ふよりは壮大な妄想男。結末はドン=ジュアン宜しく地獄落ちを期待したが、大団円なので一寸物足らない。もうひとつの難点は嘘つき男に口説かれるお嬢様方の心理が軽薄で生硬な点。[☆☆]

『ロドギュンヌ』 "RODOGUNE"

 コルネイユ自身最高傑作と目してゐた渾身の悲劇。序盤は囚はれのパルティア王女、美貌のロドギュンヌを廻る兄弟の恋の駆け引きで始まるが、王子らの母クレオパトラとロドギュンヌの因縁が次第に明らかとなり、全てがクレオパトラの仕組んだ陰謀であつて、兄弟を競はせてロドギュンヌへの復讐を図るといふ全貌が次第に顕示される。愛情が薄く権力志向が強いクレオパトラは息子をも手に掛け復讐を完遂しようとするが、その矢先に気丈なロドギュンヌにより阻まれ、傲然と自死する。この悲劇の主人公はシリア女王クレオパトラ・テアであり、本性を露わにした件は寒気がするほど恐ろしい。[☆☆☆]

『ニコメード』 "NICOMÈDE"

 ハンニバルの薫陶を受けたピチュニア王国王子ニコメードは師譲りの軍師で武勲並ぶ者ない。父王の後妻の企みを知つて、単身戦線を離脱し、愛するアルメニア女王ラオディスに求婚する後妻の子アタールから守り、ローマ大使と結託して王権を狙ふアルシノエから王国を救ふ。軍から離れた王宮で、敵の陰謀に囲まれ絶体絶命のニコメードだが、気位高き勇者は遂には周囲を感化し、ローマへの従属の危機を回避する。悲劇といふよりも英雄的史劇であり、ローマの政略が絡み合ふ政治劇でもある。ハンニバルの遺志が通底するのを見落としてはならない。[☆☆☆]


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