近松門左衛門

(杉森信盛、承応二年〜享保九年、1653〜1724)


『曾根崎心中』

 氏神と称された近松の世話浄瑠璃第一作目として新たな地平を切り開いた不朽の名作。八方塞がりの窮地に立つた徳兵衛は一途に愛した遊女お初との心中を図る。お初の心理が描き切れてゐない怨みがあるが、悲劇へと転がり落ちるあはれな情感を募らせる筆は惻々と胸に迫る巧みさがある。凝縮された場面展開の見事さも然る事乍ら、既に完成の域に達してゐた語り口の美しさは第一級の藝術であり、特に心中道行冒頭の儚い美しさは冠絶する。「この世のなごり。夜もなごり。死にに行く身をたとふればあだしが原の道の霧。一足づゝ消えて行く。夢の夢こそ哀れなれ。」[☆☆☆]

『冥途の飛脚』

 遊女の梅川に入れ込んだ飛脚問屋の忠兵衛は手を付けてはならぬ金を使ひ込んで仕舞ひ、窮地に追ひやられる。忠兵衛の体面の為に一芝居を共謀した八右衛門の男気が裏目に出る件は秀逸で、形振り構はない忠兵衛の破滅を阻止しようとする周囲の人情との葛藤を描くことで、近松は事件に蓋然性を与へてゐる。情愛の深さに打たれた梅川が忠兵衛と逃避行を共にする物悲しい描写も然る事乍ら、白眉は直感で相手の素性を悟つた忠兵衛の実父が、梅川に心情を吐露した愁嘆場で、いともあはれで切ない。忠兵衛の押し殺した嗚咽に袖を濡らさずにをられようか。[☆☆☆]

『心中天の綱島』

 心中物は世話浄瑠璃の半数を占める近松の神髄であるが、それ迄の手法を余す処なく発揮した集大成とも云へる後期の傑作。遊女の小春に入れ込んだ治兵衛の心理だけではなく、周囲を巻き込んだ悲劇が曲折をもつて描かれる。治兵衛らの心中を食ひ止めようと客に変装して説得する治兵衛の兄、治兵衛の妻おさんから歎願の手紙を受け取り胸を痛める小春、そして、おさんが決意する自己犠牲は女通しの義理人情といふ得難い感情を描いてをり瞠目させられる。行き詰まつた恋仲の心中道行を綴る「名残の橋づくし」はじわりと悲しみを募らせる名文。[☆☆☆]


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