ブレヒト

(Bertolt Brecht、Eugen Berthold Friedrich Brecht、1898〜1956)


『三文オペラ』 "DIE DREIGROSCHENOPER"

 劇を中断してソングを挿入する音楽劇『三文オペラ』は総合藝術であり、その魅力はクルト・ヴァイルの音楽抜きには語れない。ヴァイルのソングがなければこれほどの名声を勝ち得なかつたし、ブレヒトとの共同作業でなければその音楽は残らなかつたに違ひない。ゲマインシャフトが崩壊しゲゼルシャフトに移行した時代の人間性の歪みを生々しく表現したところにこの作品の価値がある。悪党メッキー・メッサーの市民性や潔白性を暗示する台詞や、茶番のやうな結末も意義深く、結句の解釈は鑑賞者を試す。「不正をあまり追求するな/この世の冷たさに遭へば、/不正もやがて凍りつくさ/考へろ、この世の冷たさを。」[☆☆☆]

『肝っ玉おっ母とその子供たち』 "MUTTER COURAGE UND IHRE KINDER"

 ブレヒトの代表作。舞台は人類史上最悪の戦争のひとつドイツ三十年戦争の時代で、肝っ玉おっ母ことアンナ・フィアリングは女酒保だ。それぞれ父親の違ふ息子二人と娘一人を全て戦争で失つて行く筋立てだ。この劇は御上や戦争に翻弄される庶民の生き様といふ永遠不滅の主題を扱つてゐる。ブレヒトは肝っ玉への同情心を抱くことを拒絶してゐる。事実、劇中で肝っ玉は矛盾に充ちた言動を繰り返してゐる。生きるか死ぬかの瀬戸際に綺麗事は通用しない。主義主張も変へざるを得ない。戦争を呪ひ乍ら戦争の恩恵によつてしか生きられない肝っ玉。子供たちを失ひたくない一心でゐても、捕まつた次男を見捨てる場面は印象的だ。長男は残虐行為で武勲を上げたが、情勢の変化により同じ行為で処刑される。唖の娘は役立たずだつたが、敵軍の襲来を告げる為に太鼓を打ち鳴らし銃殺された。この作品は大戦勃発と共に書かれた。為政者のやうに戦争の齎す利益に便乗しやうとした肝っ玉は子供を失ふ。それでも野垂れ死なない為に戦争に寄生する最後の場面は憐れを誘ふだらう。だが、読者は肝に銘じなくてはならない。如何なる大義名分があらうと戦争を必要とすることが悪であることを。[☆☆☆☆]

『ガリレイの生涯』 "LEBEN DES GALILEI"

 ブレヒトの最高傑作であらう。天文学の父にして当代最高の物理学者であつたガリレイの後半生を史実と資料を入念に研究して描いてをり、異化効果や叙事的演劇で知られるブレヒトにしては穏健な作風だ。古典的な趣向は後退とも見なせるが、寧ろ普遍的な主題を展開した面を強調したい。思想の広がり、アポリアとジレンマを包含した主題は様々な解釈を受け入れる器を具へてゐる。着眼したいのは大別して初稿と改訂稿の2種が存在するといふことだ。初稿は大戦前夜の1938年に脱稿してゐることに注目したい。権威に真実を突き付けて迫害され、生きる為に屈服するガリレイの姿にナチス・ドイツ下の文化人の苦悩を重ねることが出来る。この段階では地動説撤回は研究続行の為の妥協として、後世への貢献といふ弁明の側面を持つてゐる。だが、アメリカ亡命中に起こつた原爆投下の報を受けて改訂された第2稿は、科学を権力の手に渡したことを悔い、自らを断罪する厭世的な立場に変貌した。民衆を権威の軛から解き放つ為にあつた地動説を封印したことで、科学は権力の婢となり原子力は人類を殺戮する道具となつた。この作品の持つ今日的な意義は巨大だ。曰く「科学の唯一の目的は、人間の生存条件の辛さを軽くすることにあると思ふんだ。もし科学者が我欲の強い権力者に脅迫されて臆病になり、知識のための知識を積み重ねることだけで満足するやうになつたら、科学は片輪にされ、君たちの作る新しい機械もただ新たな苦しみを生みだすことにしかならないかもしれない。」[☆☆☆☆]

『アンティゴネ』 "ANTIGONE"

 高名なソポクレスの原作をヘルダーリンがドイツ語に翻訳したテクストを使用し、ブレヒトが現代的な脚色をして世に問ふた作品。晩年のブレヒト作品は大半が改作を占めるが『アンティゴネ』はその成功例だ。基本的に筋や設定は原作に沿つてゐるので、主題は個の論理と国家もしくは社会の論理との対決と云つてよいが、細部に現代的なアレゴリーがあり刺激的だ。ブレヒト劇ではコロスの立ち位置が重要で、保身的な批判をするだけの衆愚として描かれ、結果的にデマゴーグに右往左往する。「恐れに震へ乍らも耳に栓をしてきた。/あなたが手綱をギュッと引き締めると、眼を閉じた。/もうひとふんばり、あとひと戦さ必要なのだと、あなたは云はれた。/ところが今やあなたは、私らまでも敵扱ひしはじめた。/残忍にも、二重の戦争をやろうとしてゐる。」 現代においても繰り返される危機を警告した作品だ。[☆☆☆]

『暦物語』 "KALENDERGESCHICHTEN"

 短い物語と詩が交互に8つずつ配置され最後に警句小咄集『コイナーさんの物語』が付いた全部で17の読み物からなる『暦物語』はブレヒトの慧眼が凝縮された名作である。詩はヴィヨン風からプロレタリア文学風まで、仏陀や老子などの東洋的要素も混ぜた古今東西の様式による形而上学的な詩で、世界の闇の真相を炙り出す。短篇小説は全て傑作だが、特に『アウグスブルクの白墨の輪』『実験』『異端者の外套』『カエサルとカエサルの軍団兵』『怪我をしたソクラテス』は珠玉だ。中でも緊迫したカエサル暗殺の物語、知の探求の悲喜が凝縮したフランシス=ベーコンの物語が抜きん出て素晴らしく、人徳の美しさで読む者の心を洗ふジョルダーノ=ブルーノの物語『異端者の外套』こそは文学の究極の理想と云へる。[☆☆☆☆]


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