世界文学渉猟

アイスキュロス

(Αισχύλος、前524/5〜前456)


"ἹΚΈΤΙΔΕΣ"

『ヒケティデス―救ひを求める女たち』

 『救ひを求める女たち』『アイギュプトスの息子たち』『ダナオスの娘たち』で三部作を成し、これにサテュロス劇『アミュモネ』を付けて上演された。望まぬ計略結婚を厭つて、海を越えて祖先の地アルゴスにまで逃れたダナオスの娘たちが、領主ペラズゴスに保護を求める第一部以外は断片しか残らない。慎重に難儀に当たるペラズゴスの裁量振りが劇的緊張を孕む作品だが、悲劇の序章を務める第一部の枠を出ない。[☆]


"ΠΈΡΣΑΙ"

『ペルサイ―ペルシア人』

 通常、神話や英雄を題材に扱ふギリシア悲劇の中で、ペルシア戦争―アイスキュロスも参戦した―といふ歴史的事実を題材にとつた異色作。舞台をアケメネス朝の都スサに設定し、命辛々敗走したクセルクセス王の狼狽、失意、悲嘆を描く悲劇であるが、ギリシアの観客にとつて敗者を嘲弄する喜劇に他ならないので、些か趣味が悪い。[☆]


"ἙΠΤᾺ ἘΠῚ ΘΉΒΑΣ"

『テーバイ攻めの七将』

 『ライオス』『オイディプス』『テーバイ攻めの七将』で三部作を成し、これにサテュロス劇『スフィンクス』が付けて上演されたが、現存するのは終章となるこの作品のみ。七人の侍を列挙する箇所の功しき格調高さは特筆すべきだが、説明臭さが付きまとひ、悲劇としての痛ましさは希薄だ。人間の意志の力を過信し、神慮を軽視してきた父子三代にわたる呪はれた血筋の末路が、叙事詩のやうに語られる。[☆☆]


"ΠΡΟΜΗΘΕῪΣ ΔΕΣΜΏΤΗΣ"

『縛められたプロメテウス』

 『縛められたプロメテウス』『解放されるプロメテウス』『火をもたらすプロメテウス』で三部作を成したが、現存するのは第一部のみ。アイスキュロスがプロメテウスに吹き込んだ不屈の精神は如何ばかりであらう。楔を穿たれたプロメテウスがロゴスのみで展開する追放と反抗の静劇。しかし、預言を放つプロメテウスの暗き謎かけを残して第一部が終はる為にカタルシスは薄い。劇中でプロメテウスは、火の他に、「運命を前から見えないやうに」して「盲な希望」を人間に与へたと語る。恐らく未来を知る人間は不幸に違ひない。愚かな希望のみが人間の救ひであることを喝破した叡智に感服した。[☆☆☆]


"ὈΡΈΣΤΕΙΑ"

「オレステイア」三部作

 『アガメムノン』『供養する女たち』『慈みの女神たち』で三部作を成す。三部作が完全な形で現存する唯一のものとして重要。悲劇の上演は3つの悲劇とサテュロス劇の計4つで競はれたので、3つの悲劇が1つの連作となつた三部作こそギリシア悲劇の神髄であり、雄渾で激越な作風のアイスキュロスは三部作で真価を如何なく発揮した。呪はれたアトレウス家の復讐の連鎖を断ち切るオレステスの名を冠してゐるが、その実、真の主人公はクリュタイメストラであり、第一部から第三部まで死して尚も劇を支配する確執が壮絶極まりない。[☆☆☆☆]


"ἈΓΑΜΈΜΝΩΝ"

『アガメムノン』

 恐るべきはカッサンドラの預言で、呪はれた復讐の連鎖に己とアガメムノンの血が加はるといふ神託には震撼を禁じ得ない。息子を神々への膳としたタンタロス、弟テュエステスに子供を食らはせたアトレウス、トロイエ遠征の為に娘を生け贄に供したアガメムノン、父子三代にわたる身の毛もよだつ血筋にまたひとつおぞましい血が流される。傲然と夫殺害の正当性を主張するクリュタイメストラと、父の復讐を果たした情夫アイギストスに最早正義はない。底なしのエレオス(いたましさ)とポボス(おそれ)が襲ひかかる様はアイスキュロスの独擅場。[☆☆☆]


"ΧΟΗΦΌΡΟΙ"

『コエポロイ―供養する女たち』

 第二部の焦点は、親の敵アイギストス殺害を果たしたオレステスが一度は躊躇ふ母殺しへの葛藤―神意である復讐を貫徹する苦悩である。命乞ひをするクリュタイメストラは、オレステスの非情な意志を見て取ると恐ろしき呪詛を浴びせる。両者の正義は決して和解を見ない。勝者も敗者もない運命の袋小路を、アイスキュロスは斟酌なしに描き、突き放す。[☆☆]


"ΕΎΜΕΝΊΔΕΣ"

『エウメニデス―慈みの女神たち』

 エリニュスを嗾けるクリュタイメストラの亡霊の圧倒的な存在感が心胆寒からしめる。第三部の焦点は、オレステスの正義とクリュタイメストラの正義の勝敗の行方になるが、所詮正義の名を借りた両者の復讐に道理はない。ポイボスとアテナが下すお裁きに正当性はないが、エリニュスをエウメニデスに浄化させることで復讐の連鎖を断ち切る。断ち切らねばならないのだ。慈みに救ひを見い出すカタルシス。[☆☆]


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