ディヌ・リパッティ ディスコグラフィー  / Dinu Lipatti Discography


ディスコグラフィー | 寸評 | 推挙




 初めてディヌ・リパッティといふピアニストの録音に出会つた時のことから語るのをお許し頂きたい。

 クラシック音楽を好んで聴き始めたのは高校生の時分で、金銭的に余裕がない訳だから専らFM放送を頼りに未知の曲と演奏家を聴いてゐた。特に聴きたかつた曲が放送されるとなればカセットテープを回して録音したもので、曲が流れる前に作曲家や作品の解説が入るのも入門者にはとても役立つものだつた。
 或る日、何気なくラジオを聴き流してゐると、ショパンのワルツ集が始まつた。最初の音から心を奪はれた。そして慌ててテープを回した。Minute Waltzの何と素晴らしかつたことか。全14曲が終はつた後、演奏者名は再び述べられなかつたので、私は放送が始まる前に語られた解説を必死に思ひ返した。それは、ショパンのことでもワルツ集のことでもなく、少し録音が古いことを断りつつ演奏者について比較的長く語られた特異な内容だつたので、記憶に残つてゐたのだ。覚えてゐたのは、奏者が若くして病死したこと、亡くなる直前のリサイタルでもショパンのワルツを弾いたが最後の一曲だけ弾くことが出来なかつたこと、14曲を独自の配列にして全体の一貫性を配慮してゐることであつた。それとMinute Waltzが3番目に配列されてゐることが、途中から回したテープで確認出来たことであつた。後日、CD売り場でこの配列を採用してゐるリパッティの録音を探し出した。購入して聴いてみると、はたして過日の名演が再び蘇つたのだつた。
 その後もCDを集め、私が最初に購入した箱物もリパッティのEMI録音集であつた。他のピアニストをあれこれ聴いてきたが、私にとつて最高のピアニストは変はらずリパッティであつたし、これからもそうあり続けることだらう。

 リパッティが夭折してから60年近くにもなるが、愛顧する人は後を断たない。リパッティは不治の病による早過ぎる死と貴公子然とした演奏の為―特にブザンソンの最後の演奏会における献身的な印象が創り出した像の為に悲劇のピアニストとして感傷的な聴かれ方をされてきたことは否めない。病名そのものにしても、一般的に白血病とされてきたが、実際は悪性リンパ腫の一分類であるHodgkin病と云はれる。だが、敢へて特別視しなくとも、水準より状態の良くない録音ばかりでありながら、これほどまでに語り継がれるピアニストは珍しいだらう。




 リパッティのよさは何処から来るのだらうか。それは指奏法の完璧な修錬と、抑制されたペダリングからである。指奏法はモーツァルトの時代には主流だつたと考へられる奏法で、体全体は基より、肩、肘、手首などの動きを最小限にして、指の加減のみによつて弾く流儀と云つてよいだらう。それが、ベートーヴェン、ショパン、リスト、ルビンシテインとロマン派の時代を経るに従ひ廃れ継承されなくなつた。ロマン派の音楽が手首や肘や肩や体全体による表現を総動員する必要性を要求したからである。モーツァルト時代の協奏曲やソナタが、後代の作曲家とはピアニズムを異にすることは作品を聴き比べれば確認できる。モーツァルトの鍵盤作品はピアニズムとしての表現の幅は限られてゐるにも関はらず、転調時における微妙な感情表現などが要求され奥が深い。これは、今日とは異なる当時の楽器の性質もあるが、弦を叩いて出る音の自然な美しさを追求してゐる為であり、楽器の持つ本来の美しさを引き出した奏法とも云へる。
 次第に廃れてしまつた指奏法の伝統をリパッティは20世紀において継承した数少ないピアニストであり、古典派作品を弾くときばかりでなく、ショパンを演奏する際にもしばしば用ゐて作品から清廉な美しさを引き出してゐる。タッチは的確で、音の立ち上がりが速く、凛とした詩情を喚起した。さらにペダルの使用を限定してゐる為、響きの純粋さが輪をかけて助長され、簡素な曲を弾くときほど妙味を発揮した。

 リパッティは協奏的作品においては力強く技巧的に弾きはするが、華々しくはない。ウォルター・レッグは、リパッティの音楽性が俗化されたヴィルティオーゾとは種類を異にし、寧ろ17世紀に用ゐられた「コニサー(玄人、目利き、通)」といふ呼び名こそ相応しいと述べてゐる。流石は名プロデューサーで、的を射た表現には溜飲が下がる思ひである。リパッティの演奏は、格調が高く、貴族的で、厳しく孤高な趣がある。瑞々しく清楚な抒情が流れ、そこはかとない侘び寂びを知つた表現がある。
 リパッティの音楽性の源流を探れば、自然とエネスクに行き当たる。リパッティにとつてエネスクを代父に持つたことは幸運であつた。いや、エネスクがゐなければリパッティは誕生しなかつたとまで云つてよい。リパッティのレパートリーはエネスク好みのものばかりである。特にバッハの格式高い解釈はエネスク直伝ではないかと想像される。さらにパリでブーランジェに就いて学んだことが、リパッティの慎み深く敬虔な音楽性に大きな影響を与へたと考へられる。一般的にリパッティはコルトーの弟子といふ認識が強いが、寧ろ「エネスクを父とし、ブーランジェを母とする」音楽家であつたと云ひたい。



エネスクと幼きリパッティ



Biography

 1917年3月19日ブカレスト生まれ。父親はヴァイオリン、母親はピアノを嗜むといふ音楽一家に育つ。コンスタティンといふ洗礼名を授けた代父はエネスクであつた。4歳のときには慈善公開演奏を行ふといふ神童振りを発揮。1933年、ウィーンの国際ピアノコンクールで第2位。この時審査員の一人だつたコルトーがリパッティの第1位を強硬に主張し、審査員を辞任するといふ事件があつた。以来パリ音楽院でコルトーに師事する他、指揮法をミュンシュに、作曲をデュカに師事。デュカ没後はナディア・ブーランジェに師事。リパッティの最初期の録音はブーランジェとともに行はれた。第2次大戦の勃発によりルーマニアに帰国するが、戦況悪化に伴ひスイスへ脱出。困難を極めた逃避行により命を奪ふ病魔に冒されたと云はれる。戦後ウォルター・レッグをプロデューサーとする英コロムビアと専属契約。各地への演奏旅行で一躍名声を得るが、病気が進行、活動停止を余儀なくされた。1950年、コーチゾンといふ大変高価な新薬投与による治療の期待が高まると、多くのファンや、メニューイン、ミュンシュらより治療代が寄せられた。しかし、回復は一時的なもので、ブザンソン音楽祭でのリサイタルが最後の演奏会となつた。同年12月2日ジュネーヴにて没。




Discography

1 1936/6/25 Test Recordings
in Ecole Normale de Musique,Paris
J.S.Bach Allemande from Partita No.1 B-dur,BWV.825   performed with the cembalo
2 J.S.Bach Improvisation on Bach-Busoni Toccata in C (arr.Lipatti)   performed with the cembalo
3 Enescu Presto vivace from Sonata for Piano No.1 fis-moll,Op.24    
4 Brahms Intermezzo b-moll,Op.117-2    
5 Brahms Intermezzo es-moll,Op.118-6 (fragment)    
6 1937/2/20-
1938/1/22
Disques Gramophone Brahms 18 Liebeslieder-Walzer,Op.52   with Comtesse Jean de Polignac (soprano), Irène Kedroff (Contralto), Hugues Cuénod (tenor), Doda Conrad (bass), Nadia Boulanger (p)
7 1937/2/25 Gramophone Brahms Walzer for piano duet,Op.39 (No.6,15,2,1,14,10,5,6)   with Nadia Boulanger (p)
8 1941/4/28 Test Recordings
in Bucharest
Brahms Intermezzo a-moll,Op.116-2    
9 Brahms Intermezzo Es-dur,Op.117-1    
10 J.S.Bach "Jesus bleibet meine Freude"C-dur from Cantata No.147 (arr.Hess) 1  
11 D.Scarlatti Sonata G-dur,K.14 (L.387) 1  
12 Chopin Etude Ges-dur,Op.10-5 1  
13 Schumann Symphonic Etude,Op.13-9    
14 Liszt Concert Study,S.145-2"Gnomenreigen"    
15 1943/1/14 Live in Berlin Lipatti Concertino en style classique,Op.3 1 with Berlin Chamber Orchestra / Hans von Benda (cond.)
16 1943/3/2 Radio Roumaine Recording Enescu Bourrée from Suite for Piano No.2 D-dur,Op.10   Sarabande and Pavane was played by George Enescu (p)
17 1943/3/4 Radio Roumaine Recording Lipatti Sonatina for the left hand    
18 1943/3/11 Radio Roumaine Recording Enescu Sonata for Violin and Piano No.3 a-moll,Op.25"Dans le caractère populaire roumain"   with George Enescu (vn)
19 1943/3/13 Radio Roumaine Recording Enescu Sonata for Violin and Piano No.2 f-moll,Op.6   with George Enescu (vn)
20 1943/10/18 Radio Berne Recording Enescu Sonata for Piano No.3 D-dur    
21 1945/10/10 Live in Geneva Lipatti Danses roumaines pour piano et orchestre   with Orchestra de la Suisse Romande/Ernest Ansermet (cond.)
22 ca.1945-1946 Private Recordings D.Scarlatti Sonata d-moll,K.9 (L.413) 1  
23 D.Scarlatti Sonata G-dur,K.14 (L.387) 2  
24 D.Scarlatti Sonata g-moll,K.450 (L.338)    
25 Brahms Intermezzo C-dur,Op.119-3    
26 Brahms Capriccio d-moll,Op.116-7    
27 1947/2/20 Columbia D.Scarlatti Sonata d-moll,K.9 (L.413) 2  
28 1947/2/20 Columbia Chopin Nocturne No.8 Des-dur,Op.27-2 1  
29 1947/3/1-4 Columbia Chopin Sonata for Piano No.3 h-moll,Op.58    
30 1947/3/24 Test Recordings
in Zürich
Beethoven Allegro non tanto from Sonata for Violoncello and Piano No.3 A-dur,0p.69   with Antonio Janigro (vc)
31 J.S.Bach Andante d-moll,BWV.528a   with Antonio Janigro (vc)
32 Fauré Après un rêve   with Antonio Janigro (vc)
33 Ravel Pièce en forme de Habanera   with Antonio Janigro (vc)
34 Rimsky-Korsakov Vol du Bourdon   with Antonio Janigro (vc)
35 1947/6/6 Live in Geneva Liszt Concerto for Piano No.1 Es-dur,S.124   with Orchestra de la Suisse Romande / Ernest Ansermet (cond.)
36 1947/9/18-19 Columbia Grieg Concerto for Piano a-moll,Op.16   with The Philharmonia Orchestra / Alceo Galliera (cond.)
37 1947/9/24 Columbia Chopin Valse No.2 As-dur,Op.34-1    
38 1947/9/24 Columbia J.S.Bach "Jesus bleibet meine Freude"C-dur from Cantata No.147 (arr.Hess) 2  
39 1947/9/24 Columbia Liszt Sonetto 104 del Petrarca from Années de pèlerinage:Deuxième année”Italie”    
40 1947/9/25 BBC Recording Liszt Concert Study,S.144-2"La Leggierezza"   first two bars missing
41 1947/9/27 Columbia D.Scarlatti Sonata E-dur,K.380 (L.23)    
42 1947/10/2 Live in Amsterdam J.S.Bach Concerto for Cembalo d-moll,BWV.1052 (arr.Busoni)   with Amsterdam Concertgebouw Orchestra / Eduard Van Beinum (cond.)
43 1948/4/9-10 Columbia Schumann Concerto for Piano a-moll,Op.54 1 with The Philharmonia Orchestra / Herbert von Karajan (cond.)
44 1948/4/17 Columbia Ravel Alborada del gracioso    
45 1948/4/17-21 Columbia Chopin Barcarolle fis-moll,Op.60    
46 1948/5/30 Live in Baden-Baden Bartók Concerto for Piano No.3,Sz.119   with Südwestfunk-Sinfonieorchester / Paul Sacher (cond.)
47 1948/?/? Live Lipatti Concertino en style classique,Op.3 2 unknown
48 1950/2/7 Live in Zürich Chopin Concerto for Piano No.1 e-moll,Op.11   with Zürich TonHalle Orchestra / Otto Ackermann (cond.)
49 Chopin Nocturne No.8 Des-dur,Op.27-2 2  
50 Chopin Etude e-moll,Op.25-5    
51 Chopin Etude Ges-dur,Op.10-5 2  
52 1950/2/22 Live in Geneva Schumann Concerto for Piano a-moll,Op.54 2 with Orchestra de la Suisse Romande / Ernest Ansermet (cond.)
53 1950/7/3-12 Columbia Chopin Valses (No.4,5,6,9,7,11,10,14,3,8,12,13,1,2) 1  
54 1950/7/6 Columbia J.S.Bach Siciliana from Sonata for Flute No.2 Es-dur.BWV.1031 (arr.Kempff)    
55 1950/7/6-10 Columbia J.S.Bach "Jesus bleibet meine Freude"C-dur from Cantata No.147 (arr.Hess) 3  
56 1950/7/9 Columbia J.S.Bach Partita No.1 B-dur,BWV.825 1  
57 1950/7/9 Columbia Mozart Sonata for Piano No.8 a-moll,K.310 1  
58 1950/7/10 Columbia J.S.Bach Chorale Prelude"Nun komm,Der heiden heiland"BWV.659 (arr.Busoni)    
59 1950/7/10 Columbia J.S.Bach Chorale Prelude"Ich ruf zu dir Herr,Jesu Christ"BWV.639 (arr.Busoni) 1  
60 1950/7/11 Columbia Chopin Mazurka cis-moll,Op.50-3    
61 1950/7/27 Interview in Radio Geneva Chopin Valse No.3 a-moll,Op.34-2    
62 J.S.Bach Chorale Prelude"Ich ruf zu dir Herr,Jesu Christ"BWV.639 (arr.Busoni) 2  
63 1950/8/23 Live in Luzerne Mozart Concerto for Piano No.21 C-dur,K.467   with Luzerne Festival Orchestra / Herbert von Karajan (cond.)
64 1950/9/16 Live in Besançon J.S.Bach Partita No.1 B-dur,BWV.825 2  
65 Mozart Sonata for Piano No.8 a-moll,K.310 2  
66 Schubert Impromptu Ges-dur,D.899-3 / Es-dur,D.899-2    
67 Chopin Valses (No.5,6,9,7,11,10,14,3,4,12,13,8,1) 2  

※上記の他に3種のインタビューがあり、リパッティの肉声が聞ける。このうちの1つでは演奏を披露してをり、61と62の他、「主よ人の望みの喜びよ」の冒頭のみを演奏してゐる。
※1947年ヤニグロとのテスト録音にベートーヴェンとバッハがある。独archiphonがmp3で配信をしてゐる。CDはない。
※1943年にエネスクのSuite for violin and piano,Op.28"Impressins d'enfance"をエネスク(vn)と録音してゐるらしいが、未発売で詳細は不明である。


滋味豊かな音がするベヒシュタインを愛用


 1936年に為された最初の録音はテスト録音であり、商業用でない為に音の状態が極めて悪く、内容を云々するやうな録音ではないが、バッハの2曲はチェンバロによる演奏といふことで珍重されるだらう。エネスクとブラームスの曲も正規録音は残されてゐないので、鑑賞用といふよりも記録としての価値が高い。1937年、最初の商業用録音となつたブラームスの2つのワルツ集は、ブーランジェとのデュオなのでリパッティを聴くといふよりも師弟の微笑ましき競演を聴くといつた類ひのものだ。とは云へ、Op.39の有名な第15番のワルツなどは琴線に触れる名演である。1941年のテスト録音も音の状態が悪く、資料価値の方が高い。バッハとショパン以外は唯一の録音で、特にシューマンはリパッティに相応しい曲と思はれるので興味をそそられる。

 1943年、ルーマニア帰国時におけるエネスクとリパッティの作品の録音は単に自作自演といふだけに止まらない傑作揃ひだ。特に思索と憧憬が交錯するエネスクのヴァイオリン・ソナタ第2番は、両人の詩的な気質のみが為し得た極上の名演。同じく第3番も素晴らしいが、エネスクが剥き出しの感情を漲らせた戦後の再録音の方に軍配を上げたい。しかし、ピアノに関しては断然リパッティが素晴らしく、併せて聴きたい。エネスクのピアノ・ソナタは稀代の名演で、第2楽章の郷愁を含んだ侘しさは余人の及ばぬ境地だらう。この曲にはリパッティ盤に競合出来る録音がなく、決定的名盤と云へる。これらエネスクの作品に比べてリパッティの作品では曲の感銘が劣るのは致し方ないが、擬古典的なコンチェルティーノが最も資質に合つてをり楽しめる。新古典主義的なベルリン盤、情緒的な共演者不明盤ともそれぞれ良い。

 1945年から1946年のシーズンに録音されたと考へられるプライヴェート録音が発見された。スカルラッティの3曲のソナタとブラームスが2曲で、音質も観賞用として通用する。品格あるスカルラッティ、情念が湧き上がるブラームス、全て素晴らしい。1947年、ヤニグロとの共演は主にチェロを聴くための録音だが、唯一のベートーヴェンが聴ける重要な録音が含まれてをり看過出来ない。チェロ・ソナタ第3番の第1楽章で、高貴で強靭な演奏が神々しい。

 1947年から1948年にかけての英コロムビアへの録音はリパッティの代表的な遺産であり、不出来な演奏はひとつとしてない。特にラヴェルは鮮烈な色彩感と躍動感で絶対的な高みにある。端正で、陰影に富み、奥床しいスカルラッティはピアノで演奏したものとしては最高峰であらう。リストは精神性を追求した音づくりで詩情豊か。飛翔する憧れ、名残惜しい寂寞感が見事だ。ショパンのソナタと小品からは清楚な抒情美が特徴で、凛とした味わいは絶品である。特にノクターンが素晴らしい。ただ、ショパンはコルトーなどの別種の名演も多いので特別にリパッティを贔屓にはしない。

 グリーグの協奏曲はピアノ・パートだけを考へれば最高で、冒頭の和音から何と格調高い音楽が響いてゐることだらうか。北欧のひやりとした大気と厳しい自然が音の中に共存してをり、特にカデンツァは技巧の冴えも相まつて威厳に充ちてゐる。この録音の難点は管弦楽伴奏が水準に達してゐないことで、リパッティのピアノと比べて相当聴き劣りがする。レッグのオーケストラであるフィルハーモニアは創設されたばかりであり、次のシューマンの録音でも木管楽器の技量に不満が残る。但し、指揮者ガリエラの音楽が熱く、オーケストラの雑な感じを補つてゐる。グリーグに比べるとカラヤンと共演したシューマンは大分感銘が落ちる。颯爽としたテンポで耽溺しない力強い演奏であるが、シューマン特有のロマンの発露が薄い。特にカラヤンの余情のない人工的な音造りに違和感があり、2年後のアンセルメとの共演盤の方が感動的だ。

 ライヴ録音ではバルトークが印象的だ。特に第2楽章が虚飾を排した独白の世界となつてをり、死を見据ゑた美しさがある。余りにも透明な音楽には身震ひがする。リパッティが残した最上の藝術のひとつである。但し、他の楽章は演奏し慣れない現代音楽の常で管弦楽の伴奏に崩れが目立ち感興が著しく殺がれる。リストの協奏曲は実はリパッティが最も多く取り上げた作品であり、内なる抒情美に焦点を当てた名演なのだが、録音状態が猛烈に悪く価値が半減してゐる。バッハの協奏曲は大時代的なトゥッティのために作品が死んでをり、格調高いリパッティのピアノも栄えてこない。アンセルメと共演したシューマンは録音が然程良いと云へないのが残念だが、演奏は大変優れてゐる。落ち着きのないカラヤンとの録音とは異なり、憧れ止まぬ幻想と熱に浮かされたやうな呼吸が妙味であり、自然な昂揚が感動的だ。管弦楽もこれによく応へてゐる。録音の古さを度外視すれば最高の演奏のひとつだ。ショパンの協奏曲はたとへ音が古くとも、管弦楽伴奏が無風流であつても、私にとつては最高の演奏であり、他の演奏者のものは採らない。第1楽章の主題のセンシティブな歌ひ回しもさることながら、何気ない経過句に込められた悲哀と憧憬に胸が熱くなる。凛とした音楽造りが感傷の品格を保つてゐる。第2楽章は失はれた幸福への回想であり、心に寄り添ふやうに奏でられる。協奏曲と同日に弾かれたノクターンは指慣らしの後に演奏される。和声を鳴らし、会場を次なる調性へと誘ふ。些細なことだが、音楽の生成を窺へる貴重な瞬間だ。モーツァルトの協奏曲は典雅、軽快、しかも情緒豊かで、ピアノ・パートだけに関して云へば最高であらう。これも録音が水準以下なのが残念だ。カラヤンの指揮はレガート奏法を基調にしてをり美しいが、様式的にはややべたついた古風なもので余り感心出来ない。

 死の年、ジュネーヴでの一連のセッション録音は全て神品と形容するのが相応しい。バッハは世俗臭が全くしない神々しい演奏。ロマンティックでもなく、即物的でもない。古典的で抒情的と評するのが最も近い表現かもしれないが、もっと敬虔な祈りのやうなものにまで昇華されてゐる。特に「主よ人の望みの喜びよ」は天上の音楽である。コラールは静謐な美に貫かれてをり、世俗的な舞曲が混じるパルティータでも心が洗はれる。モーツァルトは冒頭から悲しみが惻々と迫る。大袈裟な表情はないが、それだけに真実味がある。ショパンのワルツ集は華やかで優雅な側面を強調した演奏が主流の中、リパッティは感傷的でメランコリックな側面に深く切り込み、短調の曲は勿論、長調の曲でも哀調がある。ワルツという舞曲の形式に捕はれず作品の本質を見据ゑてゐた点と、独自の配列を採ることで性格、感情、物語性まで引き出した点において他のピアニストとは一線を画す。マズルカはセンシティブ・エスプレシーヴォで、触れたら壊れてしまひさうな危ふい感情の上に成り立つてをり、一期一会の奇蹟的な名演だ。

 最後の録音は最後の演奏会で為された。曲目は先のセッション録音と大方一致するので比較をしていく。曲想に因るのだが、バッハは端正なスタジオ録音の方が完成度が高い。モーツァルトは逆で、このライヴの方が感情が出ており、悲愴感が強い。呼吸が感じられ、ため息も造りものではない。なお、バッハでもモーツァルトでも指ならしをしてから演奏を始めてゐるが、曲を導きだすかのやうに紡がれる。唯一の録音となるシューベルトは白鳥の歌である。奥底にある悲劇性を儚い憧れで優しく包んでゐる。ショパンはミスタッチも散見され、演奏の後半は運指が乱れ痛々しいが、詩情が溢れてゐる。重要なのはセッション録音時と配列を若干変更してをり、常により良い音楽を探求してゐたことがわかる。力尽きて最後のワルツを弾くことを断念したリパッティは、換はりに「主よ人の望みの喜びよ」を弾いて―録音は残らない―舞台を去つた。永遠に。



 リパッティの残した録音は悉く良い。どれを聴いても気品ある抒情が聴かれるからだ。しかし、それでは余りにも贔屓が過ぎるから、特に優れた録音だけを挙げよう。バッハの「主よ人の望みの喜びよ」―3種の録音があるが最後のものが一番良い、ショパンの14のワルツ集とマズルカモーツァルトのソナタ―これはブザンソンにおける最後のリサイタルの方が僅かに良い、それからラヴェル「道化師の朝の歌」、とこんなものだ。次点では、バッハのパルティータとコラール、スカルラッティのソナタ2曲、シューベルトの即興曲2曲、リスト「ペトラルカのソネット」、管弦楽の伴奏が水準以下だが、グリーグ協奏曲、ショパンの協奏曲、バルトークの協奏曲―これは第2楽章のみを推挙―、などがあるが、際限がなくなるのでこれ以上は止す。リパッティのピアノに心打たれたらあれこれ聴いてみるのがよいだらう。




 リパッティのCDはColumbiaへの録音とライヴ録音の大半がEMIから繰り返し発売されてをり、入手も容易である。EMI盤には含まれない未発表録音がAPR盤で聴ける。1943年のルーマニアでの録音は数種復刻が出てゐるが、原盤からの復刻であるELECTRECORD盤が良いだらう。アンセルメとのシューマンはDeccaから商品化されてゐた。最初期のテスト録音等が収録されてゐる2種のarchiphon盤は蒐集家には重要で、ブックレットも充実してゐる。特に全レパートリーや協奏曲演奏記録のデータは圧巻で、入手は現在では困難とは云へファンなら揃へてをきたい。2017年にProfilから生誕100年記念盤として12枚の全集復刻盤が登場した。上記の商品化された音源が全て収録されてゐる上に、ブラームスの間奏曲Op.118-6の断片はこの全集でしか聴けない。ブーランジェとの愛の歌のワルツは比較的入手が困難な音源であつた。上記にも含まれないヤニグロとの録音全てがAPRから2020年に商品化された。1950年のインタヴューが収録されてゐるのはTahra盤のみである。2018年にMarstonから5曲の新発見プライヴェート録音が商品化された。



表記に誤りを発見された方、上記以外に情報をご存知の方、その他、ご感想、ご意見、お気付きの点ございましたらこちらまでご連絡下さい。

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