イグナツ・フリードマン ディスコグラフィー  / Ignaz Friedman Discography
ディスコグラフィー | 寸評 | 推挙

 イグナツ・フリードマンは不当に評価されてゐるピアニストである。これほど独創的で表現力の豊かなピアニストは滅多にゐないのだが、戦前の録音しかなく、新しいライヴ録音の発見もないことが、忘却に拍車をかけてゐる。存命当時は大技巧家として大向かふを唸らせたが、個性的で我の強い演奏の為、識者からは酷評されることも少なからずあつたやうだ。あらえびすの名著『名曲決定盤』でも、ポーランド人でありながらショパンの演奏には「詩も輝きも情操もない」と一蹴されてゐる。

 1930年前後、時まさにコルトーの全盛期で人気・実力の両面においてあらゆるピアニストを圧倒した。特にショパンの演奏では、名の通つた大家たちまで冷や飯を食はされた始末で、フリードマンも例外ではない。確かにフリードマンの弾くショパンをコルトーの演奏と比較すれば、詩情に欠け、幻想味に乏しく、ひねたアゴーギクばかりが目立つに違ひない。マズルカやポロネーズなどの民族舞曲は御國訛りのアクセントで評価が高かつたが、より自然体なアルトゥール・ルービンシュタインの全集録音の方が人気があつたやうだ。だが、フリードマンの表現主義的な演奏を、外連たつぷりで品性に欠けると断じて仕舞ふのは待つた方がよい。実のところフリードマンの残された録音で魅力を放つのは、繊細なショパンよりも、精力的で野心的なベートーヴェンやリストの作品においてである。


 フリードマンの経歴の中で最も注目すべきは名教師レシェティツキの弟子であつたことではなく、若き頃にドイツ最大の音楽学者フーゴー・リーマンの指導を受けてゐることである。リーマンは音楽の三要素を徹底的に分析し、アゴーギクの概念を初めて明らかにした大家であり、主著『音楽辞典』は今日でも重視されてゐる。ロマン派音楽は、リズム、旋律、和声といふ三要素が融合しながら展開し、ある要求された一点を目指して方向性を常に持つものだ。アゴーギクはロマン派音楽が楽譜に表記出来なかつた楽曲の意図を補足する手法である。具体的に述べれば、通常、音価が同じで音高が上がれば音量は下がる訳だが、ロマンティックな音楽が求める熱い感情表出は、音高と音量の昂揚を求め、音価の変化をも要求する。音の価値が一定でないことを解明し、楽曲から最大の効果を引き出す演奏法がアゴーギクである。この理論を体現した最も有名な音楽家はフルトヴェングラーであり、そのアッチェレランドとリタルダンドにおける音価の変化を聴けばアゴーギクとは何かを理解出来るだらう。そして、アゴーギクをピアノ演奏で実践した第一人者こそがフリードマンなのである。リズムにおけるアクセントの強調、転調とテンポ変化の一体化、旋律の上昇下降に付けられた強弱と抑揚がアゴーギクの神髄であり、フリードマン特有の上昇スケールでアッチェレランドとクレッシェンドを猛然と懸け、次いで来るコードを弾く前にパウゼを入れる奏法はアゴーギクの理論に基づいた典型的な例である。尚、ルバートとは伴奏が一定のテンポを刻む中で旋律を伸縮させることで、アゴーギクとは概念が微妙に異なる。従って一見似通ったテンポ変動であってもコルトーとフリードマンとは性質が違ふのだ。

 フリードマンを語るのに磨き抜かれた技巧の冴えを逸してならないだらう。それは運指の見事さよりも、類ひ稀な音の美しさによく表れてゐる。簡素な旋律を弾く時に聴かれるタッチへの執拗な配慮は、ゴドフスキーやローゼンタールに比すべき境地に達してゐる。フリードマンは1910年代から20年代にかけて欧州を代表するピアニストであつた。その共演者にはフーベルマン、フレッシュ、アウアー、エルマン、カザルス、フォイアマンなどが名を連ねてをり、激しい個性の衝突が想像されて興味が尽きない。フリードマンの絶頂期を示すのがベートーヴェンの没後100年祭で、シュナーベルを差し置いて首席ピアニストの使命を受け、フーベルマンとヴァイオリン・ソナタ第10番を、カザルスとチェロ・ソナタ第4番を、この両者と「大公」トリオを、ヴァインガルトナーの指揮でピアノ協奏曲第4番を演奏してゐる。しかし、実力と名声に比して不可思議なくらいフリードマンには録音が少ない。その不遇の一因に、ユダヤ系ポーランド人といふ二重の迫害を受けてゐたことが考へられる。大戦で祖国を追はれた音楽家たちは挙つてアメリカへ逃れ、放送録音を残す機会を得た中で、フリードマンはナチス政権を避けてオーストラリアに渡つた。最晩年のフリードマンが、アメリカに向かつてゐたら、若干でも演奏の記録が残つただらうにと悔やまれてならない。


フーベルマン、カザルスと組んで「大公」トリオを演奏


Biography

 イグナツ・フリードマンは1882年2月13日または14日にクラクフ近郊のポドゴルツェに生まれた。若き頃はフローラ・グルジヴィンスカの下で研鑽を積み、驚異的な技巧を身に付けた。その後、ライプツィヒ大学で著名な音楽学者フーゴー・リーマンの指導を受け、音楽理論および哲学と文献学を修めた。同じ頃グィド・アドラーに作曲を習つた。1901年より名教師レシェティツキの門下に入り、当初気乗りのしなかつた師を感嘆させるに至つた。1904年ウィーンでブラームスとチャイコフスキーの第1協奏曲、リストの第2協奏曲を弾いてデヴューし、嵐のやうな賞賛を浴びた。以後約40年に渡つて2700から3000ともされる驚異的な演奏会回数をこなした。演奏旅行も盛んに行ひ、1933年には来日して聴衆を湧かせた。ショパン生誕100年祭ではルービンシュタインと共に活躍。ベートーヴェン没後100年祭では首席ピアニストの使命を受け、カザルス、フーベルマン、ヴァインガルトナーと共演した。ナチス政権の台頭後は迫害を逃れて、オーストラリアに亡命した。その後左手の故障で再起不能になり、1948年1月26日シドニーにて亡くなつた。楽譜の校訂に膨大な業績があり、ブライトコップフ&ヘルテルのショパン全集が最高の遺産である。


Discography

1 1923/12/29 Columbia Chopin Mazurka cis-moll,Op.63-3 1  
2 1923/12/29 Columbia Chopin Valse Des-dur,Op.64-1    
3 1923/12/29 Columbia Schubert Hark,Hark the Lark!(arr.Liszt) 1  
4 1924/2/21 Columbia Liszt La Campanella(Orig.Paganini,arr.Busoni&Friedman) 1 previously unpublished
5 1924/3/15 Columbia Chopin Mazurka D-dur,Op.33-2 1  
6 1924/4/2 Columbia Chopin Prelude Es-dur,Op.28-19    
7 1924/4/2 Columbia Chopin Etude gis-moll,Op.25-6    
8 1925/11/19 Columbia Gaertner Viennese Dance No.1(arr.Friedman)    
9 1925/11/19 Columbia Hummel Rondo Favori Es-dur    
10 1925/12/19 Columbia Chopin Mazurka D-dur,Op.33-2 2  
11 1925/12/19 Columbia Chopin Ballade No.3 As-dur,Op.47 1  
12 1926/2/6 Columbia Mozart Rondo alla Turca from Sonata for Piano No.11 A-dur,K.331    
13 1926/2/6 Columbia Scarlatti Pastorale e-moll(arr.Tausig)    
14 1926/2/8 Columbia Chopin Etude c-moll,Op.10-12    
15 1926/2/8 Columbia Chopin Etude C-dur,Op.10-7    
16 1926/2/8 Columbia Chopin Valse a-moll,Op.34-2    
17 1926/4/8 Columbia Moszkowski Serenata,Op.15 1  
18 1926/9/6 Columbia Chopin Prelude Des-dur,Op.28-15    
19 1926/9/6 Columbia Chopin Mazurka h-moll,Op.33-4 1  
20 1926/9/6 Columbia Friedman Elle Dance,Op.10-5 1  
21 1926/9/6 Columbia Mendelssohn Scherzo e-moll,Op.16-2 1  
22 1926/9/7 Columbia Beethoven Sonata for Piano No.14 cis-moll,Op.27-2    
23 1926/9/7 Columbia Liszt La Campanella(Orig.Paganini,arr.Busoni&Friedman) 2  
24 1927/3/1 Columbia Friedman Elle Dance,Op.10-5 2  
25 1927/3/1 Columbia Mendelssohn Scherzo e-moll,Op.16-2 2  
26 1927/3/1 Columbia Beethoven 2mov.&3mov. from Sonata for Piano No.14 cis-moll,Op.27-2    
27 1927/3/1-2 Columbia Chopin Polonaise No.6 As-dur,Op.53 1  
28 1927/3/2 Columbia Chopin Funeral March&Finale from Sonata for Piano No.2 b-moll,Op.35    
29 1927/3/2 Columbia Friedman Tabatière à musique,Op.33-3    
30 1927/6/3 Columbia Friedman Marquis et Marquise,Op.22-4    
31 1928/2/9 Columbia Chopin Berceuse Des-dur,Op.57    
32 1928/2/9 Columbia Chopin Mazurka B-dur,Op.7-1 1  
33 1928/2/9 Columbia Gluck Gavotte from"ALCESTE"(arr.Brahms)    
34 1928/2/9 Columbia Mittler Little Nana's Music Box    
35 1928/2/10 Columbia   Judgement of Paris(arr.Friedman) 2  
36 1928/2/10 Columbia Chopin Etude Ges-dur,Op.10-5    
37 1928/2/10 Columbia Chopin Etude Ges-dur,Op.25-9    
38 1928/2/10 Columbia Schubert Hark,Hark the Lark!(arr.Liszt) 2  
39 1928/3/2 Columbia Suk Minuetto    
40 1928/3/2 Columbia Schubert Alt Wien(arr.Friedman)    
41 1928/3/2 Columbia Rubinstein Romance Es-dur,Op.44-1    
42 1928/Spring? Columbia Grieg Concerto for Piano a-moll,Op.16   with Orchestra/Phillipe Gaubert(cond.)
43 1928/2/13 Columbia Chopin Valse No.9 As-dur,Op.69-1    
44 1928/2/15 Columbia Shield Old English Menuet(arr.Friedman)    
45 1929/2/15 Columbia Chopin Polonaise No.9 B-dur,Op.71-2    
46 1929/10/10 Columbia Chopin Mazurka Cis-dur,Op.41-1 1  
47 1929/10/10?
1930/2/17?
Columbia Chopin Mazurka B-dur,Op.24-4 1  
48 1929/10/10?
1930/2/17?
Columbia Chopin Mazurka h-moll,Op.33-4 2  
49 1930/9/11-12 Columbia Beethoven Sonata for Violon and Piano No.9 A-dur,0p.47"Kreutzer"
(2TAKE:1move)
  with Bronislaw Huberman(vn)
50 1930/9/13 Columbia Chopin Mazurka B-dur,Op.7-1 2  
51 1930/9/13 Columbia Chopin Mazurka a-moll,Op.7-2    
52 1930/9/13 Columbia Chopin Mazurka f-moll,Op.7-3    
53 1930/9/13 Columbia Chopin Mazurka D-dur,Op.33-2 3  
54 1930/9/13 Columbia Chopin Mazurka B-dur,Op.24-4 2  
55 1930/9/13 Columbia Chopin Mazurka h-moll,Op.33-4 3  
56 1930/9/13 Columbia Chopin Mazurka Cis-dur,Op.41-1 2  
57 1930/9/13 Columbia Chopin Mazurka As-dur,Op.50-2    
58 1930/9/13 Columbia Chopin Mazurka cis-moll,Op.63-3 2  
59 1930/9/13 Columbia Chopin Mazurka C-dur,Op.67-3    
60 1930/9/13 Columbia Chopin Mazurka a-moll,Op.67-4    
61 1930/9/13 Columbia Chopin Mazurka a-moll,Op.68-2    
62 1930/9/16 Columbia Mendelssohn Songs Without Words F-dur,Op.53-4    
63 1930/9/16 Columbia Mendelssohn Songs Without Words ES-dur,Op.53-2    
64 1930/9/16 Columbia Mendelssohn Songs Without Words fis-moll,Op.30-6    
65 1930/9/16 Columbia Mendelssohn Songs Without Words g-moll,Op.19-6    
66 1930/9/16 Columbia Mendelssohn Songs Without Words A-dur,Op.102-5    
67 1930/9/16 Columbia Mendelssohn Songs Without Words fis-moll,Op.67-2    
68 1930/9/17 Columbia Mendelssohn Songs Without Words c-moll,Op.38-2    
69 1930/9/17 Columbia Mendelssohn Songs Without Words As-dur,Op.38-6    
70 1930/9/17 Columbia Mendelssohn Songs Without Words,Op.19-3    
71 1931/12/16-17 Columbia Liszt Hungarian Rhapsody No.2 cis-moll,S.244-2    
72 1933/2/27 Columbia Chopin Ballade No.3 As-dur,Op.47 2  
73 1933/2/27 Columbia Gaertner Viennese Dance No.2(arr.Friedman)    
74 1933/2/27 Columbia Gaertner Viennese Dance No.6(arr.Friedman)    
75 1933/2/28 Columbia Chopin Polonaise No.6 As-dur,Op.53 2 previously unpublished
76 1936/11/23 Columbia Chopin Impromptu No.2 Fis-dur,Op.36    
77 1936/11/23 Columbia Chopin Nocturne No.16 Es-dur,Op.55-2    
78 1936/11/23&12/2 Columbia Weber Invitation to the Dance,Op.65    
79 1936/12/1 Columbia Paderewski Minuet in G    
80 1936/12/1 Columbia Moszkowski Serenata,Op.15 2  
81 1936/12/1 Columbia Dvorak Humoresque Ges-dur,Op.101-7    
82 1936/12/2 Columbia Schubert Marche Militaire Des-dur(arr.Tausig)    
83 1936/12/2 Columbia Rubinstein Valse Caprice    

 旧吹込みから電気初期の録音における最高傑作はフンメルだ。驚くべき速弾きだが、全く技巧の崩れがなく音の混濁もない。躍動感に充ちながら音の美しさを保つてゐることに驚愕する。何よりも曲想を大胆に把握し表現する力に畏敬を覚える。ショパンの嬰ト短調エチュードは軽やかなタッチながらも、病的で不気味な雰囲気を醸し出してをり、倒れ込むやうなクレッシェンドと大胆なブレーキが異常だ。モーツァルト作品の録音はトルコ行進曲のみだが、瞬発的なクレッシェンドに情念がこもつてをり、一種特別な面白さがある。スカルラッティも表現主義的な演奏で個性的だが、古典的造形美とは明らかに異なる。1926年に録音されたショパンは全てフリードマンの真価と伝へる絶好調時の録音である。「革命」のエチュードは低音部の激情を伴つた渦巻きが物凄い。音形の上行下降に合はせて付けた抑揚が見事。イ短調ワルツは作為的な演奏なので好みが別れるだらう。楕円を描くルバートを間断なく用ひた躊躇ひがちな詠嘆と、不健康なディミュヌエンドが魅力を放つ。「雨だれ」のプレリュードが冒頭の旋律こそ淡白ながら、陰影が深く、心憎い名演だ。コーダにおける雨だれ一滴のさり気なく淡いタッチは絶妙で、続く余情連綿たる美しい結句には陶然となる。未発表音源のリスト「ラ・カンパネッラ」は後年の録音よりも大胆で、コーダの版も異なる。この旧録音の方が全ての点で刺激的だ。

 「月光」ソナタは、電気録音初期の為、音の貧しさが災ひしてゐるものの、録音史上最も独創的な演奏として注目したい。第1楽章は3連符が遅めで厳かに奏でられ、悲劇的な情感を漂はせてをり、旋律のディミュヌエンドも暗いロマンティシズムを醸してゐる。流麗さを排したアルカイックな演奏で、甘い感傷的な演奏とは一線を画す。第3楽章がアゴーギクを多用した聴く者の度肝を抜く表現主義的演奏である。焦燥感に充ちた熱情を見事に爆発させてゐるが、新たなフレーズが始まる際に一旦テンポを落とし、すぐにアジタート気味に捲し立てる。頻繁に繰り返されるスビト・ピアノとクレッシェンドと相まり、悪鬼に取り憑かれたやうな魔力を発散してゐる。大見得を切り過ぎと感じる向きはあるだらうが、こんなに潔い演奏は空前絶後である。第2楽章と第3楽章の取り直し録音では一層強いアゴーギクが聴かれ興味深い。

 リストの「ラ・カンパネッラ」は大胆で作為的な演奏であり、トリルの腕前には恐れ入るが、劇的なコーダを欠く編曲の為面白くない。メンデルスゾーンのスケルツォの再録音が焦燥感溢れる名演。閃光がはしるタッチ、低音部の悪魔的なアクセントが絶妙だ。英雄ポロネーズはパウゼを多用した荘重なリズムが個性的だ。流れは悪いが、低音部の引き締まつた音、重音スケールの鮮やかな技巧には頭を垂れる。葬送行進曲では中間部における消え入るやうな弱音の青白さが感動的だ。プーニョ、パッハマン、コルトーに比肩する名演。「胡蝶」のエチュードと「黒鍵」のエチュードは意表を突くアクセントとパウゼ、緩急自在のアゴーギクが頻繁に使用され、フリードマンの真骨頂を伝へる。コーダのあざとさには好き嫌ひが出るだらうが、独創的な崩しには抗し難い魔力がある。フリードマンの自作は語り口豊かな小品だが、甘口で軟弱な印象が拭へない。グルックのガボットはタッチの美しさとルバートの自在さでフリードマンの代表的な録音である。簡素な曲から驚くべき感情を引き出した手腕は並大抵のことではない。ミットラーの音楽の箱が素敵な演奏だ。冒頭の不協和音に続く美しき宝石のやうなタッチによつて現出するおとぎの国の奇蹟。ルビンシテインのロマンスが絶品で、歌ひ出しの情熱とルバートの妙、ディミュヌエンドの儚さ、弧を描くやうな歌の魅力に陶然となる。

 唯一の協奏曲録音となるグリーグが名誉とならない結果になつてゐるのが残念だ。冒頭から大胆な崩しをかけるので肝を冷やす。北欧の抒情とは無縁の濃密な演奏で、楕円を描くやうなリズムが縦横無尽に繰り出される為、曲の魅力とは程遠い。管弦楽の伴奏も鈍重で気が滅入る。フリードマンには意欲的なアゴーギクが効を奏すベートーヴェンかリストの協奏曲で録音を残してをいて欲しかつた。「クロイツェル・ソナタ」の栄冠はフーベルマン以上にフリードマンに与へられるべきだ。序奏部の暗い内省的な音色から悲劇を演じてをり、主部に入つてからの思ひ切つた対比は闘争心を掻き立てる。第1主題経過句で聴かせる瞬発的なクレッシェンドには鳥肌が立つ。第1主題を展開した独奏部分では左手の伴奏に強固なアクセントと加速を仕掛け、英雄的な情感を煽る。「クロイツェル・ソナタ」でフリードマンを凌駕するピアニストはないと断言出来る。

 マズルカ集はフリードマンの代表的録音であり、ポーランド人のみが生得してゐる民族的舞踊の秘伝を聴くことが出来る。特に左手の伴奏リズムの崩しと訛りに抗し難い魅力があり、3拍目の強調に賭けがある。野暮つたい民族色を大袈裟に打ち出した演奏としてフリードマンのマズルカは最右翼に属する。従つて、マズルカが持つ哀愁に焦点を当てた―最左翼とも云へるフランソワのやうな演奏に思ひ入れのある方には、詩も夢もない酔狂なリズムの演奏と映るだらう。メンデルスゾーンの無言歌集は概ね長調と短調の作品を交互に配し明暗を演出してゐる。短調作品の出来が何れもよく、溜息交じりの語り口が絶妙である。長調作品は晴れやかで軽やかなタッチが魅力で、合間に入る感傷が懐かしいが、平凡な演奏も混ざる。フリードマンのレパートリーに無言歌はなかつたさうだが、熟れた名演だ。リストの狂詩曲は畢生の名演と云へる。ラッサンは冒頭から劇的な起伏を伴ひ哀愁豊かで、フリスカの技巧は云ふまでもなく素晴らしく、思ひ切つた表情付けが異常な興奮を具へてゐる。急き込んだ展開を設けながらも、決め所はパウゼをとつて荘重に鳴らす。グリッサンドの閃きも鮮やかで、フリードマンの音楽性が見事に発揮された名演と云へるだらう。ショパンのバラードはコルトーの歌と比較されると分が悪く、技巧倒れしてゐる感がある。ゲルトナーのウィーン情緒溢れる舞曲は、豪快な舞踏と気怠い溜息が対照的に奏でられ趣深い。未発表音源で再録音となる英雄ポロネーズが凄まじく、旧盤が大人しく聴こえる。特に中間部で大胆にテンポを落とし大見得を切つてからの長大なクレッシェンドは鬼気迫る。

 1936年の一連の録音が最後の録音になつて仕舞つたが、ここにフリードマン最良の藝術が集約されてゐる。最高傑作はノクターンで、かのホロヴィッツが絶賛し、この録音を超える確信が出来るまでこの曲の録音は行はないとまで云はしめた伝説の名演である。寒気がするほど美しいタッチの妙はあらゆるピアノ録音の中でも光彩を放つ。フレーズの彫刻も微細にわたり、切々とした憧れが迸る矢先、諦めたやうなディミュヌエンドに変はり、果たされぬ夢が空に漂ふ。これに並ぶ名演がドヴォジャークで、音色だけで哀愁を表出した正攻法の演奏だ。中間部の悲劇的な昂揚とディミュヌエンドの妙、コーダの儚い美しさに真価がある。シューベルトの軍隊行進曲はもの哀しさに焦点を当てた異色の名演。ぎこちなく崩したリズムで逆手を取り、内気で寂しい雰囲気を漂はせ、作品から闇の部分を抉り出してゐる。同様にウェーバーも愁ひを帯びた表情が独創的だ。フレーズの最初を探るように始める仕草、アクセントの前の絶妙な間合ひ、切れのあるリズムと光沢のある美音、何れも得難い境地にある。浪漫的で豪奢な美しさを引き出してゐるパデレフスキ。懐かしさを聴かせるモシュコフスキ。凄まじい技巧の切れで舞曲への適性を示すルビンシテイン。名演が揃つてゐる。

 フリードマンの録音は何れも個性的な表現を聴き取ることが出来て興味深いのだが、成功に至つてゐないものもあるので、優れた演奏から聴き始めることを薦める。ショパンのノクターンの美しさが最も印象的で、次いでドヴォジャークのユモレスク、リストのハンガリー狂詩曲、フンメルのロンド・ファヴォリ、グルックのガボット、ルビンシュテインのロマンスが傑作だ。ベートーヴェンの「月光」ソナタには競合盤が多いが、個人的には最上位に置かれるべき録音と信じてゐる。だが寧ろ、フーベルマンとの「クロイツェル・ソナタ」こそフリードマンの代表盤にするべきかもしれない。ショパンのマズルカ集とメンデルゾーンの無言歌集も優れてゐるが、不出来なものも含まれるので推挙し辛い。録音は貧しいがショパンのエチュードが何れも痛快だ。

 フリードマンの復刻では、Naxos Historicalから全5枚の全集が出てゐる。復刻者がWard Marstonなので音質に関しても申し分ない。他に数社から復刻が為されてゐたが、それらを好んで求める必要はない。Arbiterより未発表音源が2曲発掘された。それら2曲はArbiter盤でしか聴くことが出来ない。


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