エドモン・クレーマン ディスコグラフィー  / Edmond Clément Discography


ディスコグラフィー | 寸評 | 推挙



デ=グリューに扮するクレーマン


 エドモン・クレーマンの名を知る者は本邦では数へる程度かも知れぬ。海外においても事情は似たり寄つたりだらう。何故、無名な歌手のことなどを書くのかと問はれれば、言下にクレーマンこそ史上最高のテノール・リリコであり、古今無双のフランス人歌手であるからと答へよう。私にとつての三大テノールは、イタリアのジーリ、ドイツのスレツァーク、そしてフランスのクレーマンなのだ。

 多分に漏れず、私がクレーマンの名を知つたのはあらえびすの名著『名曲決定盤』であつた。尤も歌手の頁にはなく、巻末の物故した名歌手の骨董レコードの欄に書いてあり、この時点で余程の関心がないと知る機会もないと云へる。この項目に挙げられてゐる歌手は壮観極まりない。ゲルハルト、ファーラー、カルーゾ、クルプ、シュヴァルツ、ガドスキー、タマーニョ、パッティ。その中でクレーマンの頁を読んで私の胸は最も高鳴つた。嘸かし高貴な歌ひ手に違ひないと。その中の次の一文には少なからずぎょっとした。以下凡そを引用する。「マスネの『マノンの夢』が絶品で、この歌のあらゆるレコードに冠絶する。極言することを許して貰へるならば、カルーゾ以下の大歌手もこの歌における限り、クレーマンに比べると豚が吠えるやうなものだ。」 あのカルーゾを豚扱ひである! 否これは決して誇張でも何でもなかつた。
 程なく私は英國のRomophoneといふ歌専門のSP復刻レーベルからクレーマンのCDが出たことを知り、早速取り寄せManonを聴き、あらえびすの評は審美眼に貫かれたものとして溜飲を下げたのだ。クレーマンの歌声は詩そのものである。それは病的なまでに嫋やかで、横隔膜云々の発声法からは規定出来ない詩と音楽の神韻たる結合から紡がれる霊感であつた。




 クレーマンの真価は劇的な曲では発揮されない。クレーマンの録音にドラマティコの曲は皆無で全てリリコである。賢明さが窺ひ知れよう。フランス歌曲における柔らかい絹のやうな表情は空前絶後の藝術である。絶入るやうなソット・ヴォーチェは貴族的な美しさを醸し出してゐる。
 クレーマンの最も素晴らしい技巧は、幾重にも声音を変化しながら、自然なフレーズをつくる驚異の藝である。張つた状態から力が抜けて行き、ふんわりと柔らかく軽やかな声まで自然に移行する手法は至藝と絶賛したい。フランスの名歌手は誰しも鼻母音nasalの美しさを競つたが、クレーマンは殊更nasalを際立たせることなく、繊細に移り変はる母音の美しさに重きを置いた。クレーマンの歌唱の特徴はフランス語の発音を最も美しく保持することにあつたと云へる。歌の抑揚によりディクションを歪めることを避け、まず言葉ありきを重視した。詩を矯めてまで音への従属を強いない態度はベル・カント唱法とは対照的で、パッサッジョやアクートの理念から脱却したところにクレーマンの独特の良さがある。張り上げることは滅多になく、語るやうにひとつひとつの詩句を慈しむパルラント唱法の奥義を聴くことが出来る。
 クレーマンの後の世代にジョルジュ・ティルがゐるが、ベル・カントを採り入れた劇的な張りの強さに良さはあるが、フランスの音楽をイタリアの手法で貶めたとも云へる。フランス音楽の純血を守り通し高貴で抒情的な表現を極めたクレーマンの域には程遠い。恋に悩めるデ=グリューやウェルテルの内面を切々と吐露出来たのはクレーマン唯一人である。貴公子然とした風貌も相まり観客を魅せたに違ひない。

 クレーマンは晩年にコンセールヴァトワールの声楽主任を務め、私塾も開いてゐたといふが、授業料は破格に高額であつた。自分の藝術を継承出来るほんの少数の門弟を教へる為に、授業料を高くすることで多くを門前払ひをした節がある。それだけ特殊な藝術であることを再度述べておきたい。
 余程の懐古趣味を持つ方でないとクレーマンを聴くこともなからう。忘却を運命付けられた歌手のひとりであるが、私のこのささやかな頁が僅かな脚光となることを期待して、名歌手に捧げるオマージュとしたい。

 最後にお断りをしてをかねばならないことがある。私はクレーマンの録音を件のRomophoneより復刻された2種のCD以外に所持してゐない。ここにはオデオン全録音、ヴィクター全録音、パテ全録音が収録されてゐるが、これ以外のレーベルにクレーマンが録音を残してゐるのかどうかすらも資料が少なくてわからないのだ。クレーマンは1928年に物故してをり、電気録音以前のフランスで活躍した歌手の録音の事情を鑑みれば、録音量は妥当であらう。もし、この他にも録音が確認されたら随時追加していくこととし、より完全なものにすることをお約束して、予め不備があるやも知れぬことをご容赦頂きたい。




Biography

 バプティスト・フレデリック=ジャン・エドモン・クレーマンは1867年3月28日にパリに生まれた。学童期に聖歌隊に所属し、歌に目覚めた。1887年にコンセールヴァトワールに入学し、ヴィクトル・ワローに師事、1889年には1等をとつた。1889年11月29日にグノー「ミレイユ」でオペラ・コミークの登場して以来、楽壇の最も重要な立役者となった。出演料の最高額7500フランは破格であつたと云ふ。1910年にトスカニーニの指揮でメトロポリタン歌劇場に出演し好評を博した。第一次世界大戦前にはメトロポリタン歌劇場やボストン歌劇場に多く出演した。1913年にフランスに戻った後は公演活動を減らし、教育活動に軸を移した。1921年のニューヨークでのリサイタルを最後に楽旅は止めたが、パリでは歌ひ続けた。1928年2月23日にニースで没した。



Discography

1 1905 Odéon Rossini IL BARBIERE DI SIVIGLIA : Ecco,ridente in cielo'Cavatine' Fr   with piano accompaniment
2 1905 Odéon Gounod ROMÉO ET JULIETTE : Ah lève-toi soleil'Cavatine' Fr   with piano accompaniment
3 1905 Odéon Massenet MANON : Ah fuyaz,douce image'Air de Saint-Sulpice' Fr 1 with piano accompaniment
4 1905 Odéon Boïeldieu LA DAME BLANCHE : Ah,quel plaisir'Grand Air' Fr   with piano accompaniment
5 1905 Odéon Massenet MANON : En ferment les yeux'Le rêve' Fr 1 with piano accompaniment
6 1911/11/6 Victor Werkerlin Bergère légère Fr 1 with Frank La Forge (p)
7 1911/11/6 Victor Passard L'adieu du matin Fr 1 with Frank La Forge (p)
8 1911/11/6 Victor Arcadet En passant par la Lorraine 'Chanson lorraine' (arr.Tiersot) Fr 1 with Frank La Forge (p)
9 1911/11/6 Victor Bemberg Ça fait peur aux oiseaux Fr   with Frank La Forge (p)
10 1911/11/6 Victor Massenet Sonnet matinal Fr 1 with Frank La Forge (p)
11 1911/11/6 Victor Bemberg Il neige Fr 1 with Frank La Forge (p)
12 1911/11/6 Victor Massenet MANON : En ferment les yeux'Le rêve' Fr 2 with Frank La Forge (p)
13 1911/12/18 Victor Lalo LE ROI D'YS : Vainement ma bien-aimée'Aubade' Fr   with orchestra
14 1911/12/18 Victor Godard JOCELYN : Oh! ne t'éveille pas encor'Berceuse' Fr   with orchestra
15 1911/12/18 Victor Massenet WERTHER : Pourquoi me réveiller Fr 1 with orchestra
16 1912/1/18 Victor Meyerbeer ROBERT LE DIABLE : Du rendez-vous Fr   with Marcel Journet (Bs)/ orchestra / Rosario Bourdon (cond.)
17 1912/1/18 Victor Bizet LES PÊCHEURS DE PERLES : Au fond de temple saint Fr   with Marcel Journet (Bs)/ orchestra / Rosario Bourdon (cond.)
18 1913/2/13 Victor Godard DANTE : Nous allons partir Fr   with Geraldine Farrar (S)/ orchestra / Rosario Bourdon (cond.)
19 1913/2/13 Victor Gounod ROMÉO ET JULIETTE : Ange adorable Fr   with Geraldine Farrar (S)/ orchestra / Rosario Bourdon (cond.)
20 1913/2/13 Victor Boito MEFISTOFELE : Lontano,Lontano It   with Geraldine Farrar (S)/ orchestra / Rosario Bourdon (cond.)
21 1913/3/17 Victor Schumann 4 Duette,Op.34 : Liebersgarten,Op.34-1 Fr   with Geraldine Farrar (S)/ orchestra / Rosario Bourdon (cond.)
22 1913/3/17 Victor Lully Au clair de la lune Fr   with piano accompaniment
23 1913/3/17 Victor J.B.Faure Les Rameaux Fr   with orchestra / Rosario Bourdon (cond.)
24 1916 Pathé Bemberg Il neige Fr 2 with piano accompaniment
25 1916 Pathé Weckerlin Bergère légère Fr 2 with piano accompaniment
26 1916 Pathé Mascagni CAVALLERIA RUSTICANA : Sicilienne Fr   with piano accompaniment
27 1916 Pathé Martini Plaisir d'amour Fr   with piano accompaniment
28 1916 Pathé Arcadet En passant par la Lorraine 'Chanson lorraine' (arr.Tiersot) Fr 2 with piano accompaniment
29 1916 Pathé   Les filles de La Rochelle Fr   with piano accompaniment
30 1916 Pathé Passard L'adieu du matin Fr 2 with orchestra
31 1916 Pathé Boïeldieu LA DAME BLANCHE : Viens,gentille dame Fr   with orchestra
32 1916 Pathé Massenet MANON : En ferment les yeux'Le rêve' Fr 3 with orchestra
33 1916 Pathé Massenet WERTHER : Pourquoi me réveiller Fr 2 with orchestra
34 1916 Pathé Delibes LAKMÉ : Fantaisie aux divins mensonges Fr   with orchestra
35 1916 Pathé Barbirolli Je ne veux que des fleurs Fr   with orchestra
36 1916 Pathé Hahn Mai Fr   with orchestra
37 1916 Pathé Massenet MANON : Ah fuyaz,douce image'Air de Saint-Sulpice' Fr 2 with orchestra
38 1919 Pathé Debussy Green Fr   with piano accompaniment
39 1919 Pathé Lully AMADIS DE GAULE : Bois épais Fr   with piano accompaniment
40 1919 Pathé Massenet Sonnet matinal Fr 2 with piano accompaniment
41 1919 Pathé Weckerlin Venez,agréable printemps Fr   with piano accompaniment
42 1919 Pathé Franck Le mariage des roses Fr   with piano accompaniment
43 1919 Pathé Weckerlin Jeunes fillettes Fr   with piano accompaniment
44 1919 Pathé Dubois Rondel Fr   with piano accompaniment
45 1919 Pathé Fauré Clair de lune Fr   with piano accompaniment
46 1919 Pathé Massenet WERTHER : O nature 'Invocation' Fr   with orchestra
47 1919 Pathé Berlioz L'absence from "Les nuits d'été" Fr   with orchestra
48 1919 Pathé Roubaud Il est d'etrages soirs Fr   with orchestra
49 1919 Pathé Delibes LAKMÉ : Viens dans la forêt profonde Fr   with orchestra
50 1920 Pathé Messager LA BASOCHE : Je suis aimé de la plus belle'Chanson ancienne' Fr   with orchestra
51 1920 Pathé Messager LA BASOCHE : A ton amour simple et sincère Fr   with orchestra
52 1920 Pathé Messager LA BASOCHE : Villanelle Fr   with orchestra
53 1920 Pathé Massenet LE MAGE : Soulève l'ombre de ses voiles Fr   with piano accompaniment
54 1920 Pathé Passard L'adieu du matin Fr 3 with piano accompaniment
55 1920 Pathé Koechlin Si tu le veux Fr   with piano accompaniment
56 1920 Pathé Widor Il primo amore It   with piano accompaniment
57 1920 Pathé Debussy Romance Fr   with piano accompaniment
58 1920 Pathé Hahn Cimetière de campagne Fr   with piano accompaniment
59 1920 Pathé Weckerlin L'amour s'envole Fr   with piano accompaniment
60 1920 Pathé Grieg Je t'aime Fr   with piano accompaniment
61 1920 Pathé Paër Hélas,c'est près de vous Fr   with piano accompaniment
62 1925 Pathé Hahn D'une prison Fr   with orchestra
63 1925 Pathé Cavalli Donzelle,fuggite Fr   with orchestra
64 1925 Pathé Schubert Die Forelle Fr   with orchestra
65 1925 Pathé Fauré Les adieux Fr   with orchestra

ウェルテルに扮するクレーマン


 クレーマンの録音歴は3つのレーベルに大別される。1905年のオデオン録音、1911年から1913年のヴィクター録音、1916年から1925年のパテ録音である。20年の録音歴において声質の変化が窺はれる。最晩年には声が重くなり渋みを加へた。パテ録音期にも幾つかの素晴らしい録音があるが、クレーマンの真価は矢張り初期の軽妙洒脱な歌唱にある。特に1911年のヴィクター録音10曲は古今無双の藝術境に達してゐる。録音されたレペルトワールを見ると殆どがフランスの作曲家の作品であり、イタリアの作曲家ではロッシーニ、ボーイト、マスカーニなど僅かで、その他にはシューベルト、シューマン、グリーグを各1曲歌つてゐるに過ぎない。ボーイトとウィドールを除き全てフランス語による歌唱といふのは徹底してゐる。録音されたレペルトワールも3つの時期で重複があるので、クレーマンの録音した曲目は少なく厳選されてゐる。あらえびすも述べてゐるやうにクレーマンの声はオペラに良く、メロディーにも良い。そして極限すればフランスの楽曲は全てが神品と云へ、比べて他國の楽曲のものは遜色がある。

 クレーマンの藝術で真つ先に述べなくてはならないのはマスネの作品、取り分け「マノン」のデ=グリュー役の歌唱である。'Le rêve'は3種のレーベルにそれぞれ吹込みがあり、趣向も違ひ甲乙付け難いが、古いオデオン録音を最も愛する。この録音は詩そのものにならうとしたクレーマンの想ひの発露であり、感極まる吐息までもが聴こえて来るやうだ。最後のO-Manon!を聴くがよい。消え行くディミュヌエンド、ブレスなしでManonを歌ひ始める瞬間のうち震へる様は、恋の神秘を知る者だけが表現し得る藝術の奥義である。ヴィクター録音は貴族的な白銀の声音に磨きがかかり、美しいファルセットを用ひた歌唱で完成度が高い。最後の表現は発声こそ美しいが、旧盤に比べると感情が稀薄だ。パテ録音は管弦楽伴奏で価値が高い。表現もオデオン盤に肉迫する名唱だ。'Air de Saint-Sulpice'は珍しく声を割るほど情熱的な頂点をつくる。デ=グリューの化身と紛う強い感情移入があり忘れ難い。旧盤新盤ともに優れてゐる。「ウェルテル」'Pourquoi me réveiller'もまた極上で、貴公子然たる発声と格調高いフレーズは甘い泣き節に陥ることがない。抑制された表現ながら琴線に触れる高尚な歌唱だ。旧盤新盤ともに優れてゐる。'Invocation'も気品を漂はせた絶唱。「東方の三賢人」は晩年の録音だが、貴族的な感情の昂揚が素晴らしく、マスネといふ作曲への適性を改めて感じさせる。

 次いでラロ「イースの王様」が素晴らしい。軽やかで貴族的な情感が見事で、比類のない歌唱だ。ゴダール「ジョスラン」の甘くならない格調高い声は夢のやうに美しい。ボワエルデュー「白衣の婦人」'Grand Air'は明朗かつ軽やかでクレーマンの真価が発揮されてゐる。力の抜けた発声と粋な情味はエスプリの閃きだ。'Viens,gentille dame'も柔和で自在な表現に脱帽させられる。グノー「ロメオとジュリエット」では白銀の声音が堪能出来る。張つた時の高貴な情感が見事である。ドリーブ「ラクメ」は2曲とも素晴らしい出来だが、特に'Viens dans la forêt profonde'は柔らかさと軽やかさといふクレーマンの特色が出た名唱だ。Messager"LA BASOCHE"は晩年の録音といふこともあり盛期の闊達さはないが、中ではヴィラネルの軽妙な巧さが良い。リュリ「アマディス・デ・ガウラ」にはやや衰えを感じる。

 ロッシーニはフランス語歌唱による珍しい録音。クレーマンの優男振りが如実に聴きとれるが、ヴィブラートも過剰で、なよなよして面白くない。マスカーニもフランス語歌唱による珍しい録音。リリコの楽曲だが、劇しい感情を要求されるので、クレーマンの良さは発揮されてゐない。

 ヴィクター録音期には赤盤名歌手との共演が組まれたが、ジュールネとの録音が傑出してゐる。特にビゼーは甘くなり過ぎず、凛とした情感を失はない二重唱で、叙情的な美しさに満ち、感動的な境地に達してゐる。マイアベーアは耽美的なジュールネとは対照に貴族的な発声の格調高さが素晴らしく、リリコ・レッジェーロの至藝を味はへる。比べるとファーラーとの録音は遜色がある。天下の大歌手ファーラーと雖もクレーマンに比べると品格の点で聴き劣りがする。含蓄のある暖かいクレーマンの声の完成度は別格で、二重唱を聴けば瞭然だ。中ではイタリア語で歌ったボーイトが優れてゐる。シューマンの二重唱は曲の本質と異なるところにあるかも知れないが、快活なファーラーを包み込むやうな柔らかい表現には胸打たれる。ファーラーには申し訳ないが、グノー、ゴダール、リュリの作品においてもクレーマンの素晴らしさは一層引き立つ感がある。

 メロディーは神品ばかりだが、第一に絶賛したいのがドビュッシー作品である。「グリーン」「ロマンス」はクレーマンの最上の歌唱のひとつである。儚い夢のやうな淡い名唱で、この藝術境に達した歌手を探すことは無益なことだ。フォレ「月の光」は気品を漂わせた絶唱で、クレーマンの最も優れた録音のひとつだ。最後の録音である「さらば」における結句adieuxは夢の如く美しく、辞世の句のやうだ。マスネ「朝のソネット」はパルラント唱法の見事なお手本であり、上品な嗜みを重んじるフランスの流儀が心憎い。2種あるが矢張り旧盤に良さがある。アーン「牢獄にて」は見事なパルラント唱法による絶妙な声の変化で、美しい弱音が忘れ難い名唱だ。「田園の墓」「五月」もエスプリ漂ふ名品。フランクやベルリオーズの作品も貴族的な情感が美しい逸品だ。

 ジャン=バティスト・ヴェッケルランのメロディーをクレーマンは得意とした。'Bergère légère'は幾重にも声音を変化しながら自然なデュナミークとフレーズをつくる驚異の技法で、浮遊感を漂はせる特別な藝術だ。'L'amour s'envole'も特上で、ソット・ヴォーチェの青白い美しさに身震ひする。'Jeunes fillettes'や'Venez,agréable printemps'も傑作だ。エルマン・バンベールのメロディーもクレーマンのレペルトワールの重要な柱である。'Ça fait peur aux oiseaux'の胸に迫る哀愁は如何ばかりだらう。声自体が詩と化してをり、後半のセンプリーチェ・ソット・ヴォーチェに胸打たれぬなら藝術とは無縁と諦めるがよい。バトリの名唱と共にフランス・メロディーの至宝である。'Il neige'も軽やかで比類ない。3種も録音が残るエミール・ペサール「朝の別れ」はパルラント唱法の見事なお手本であり、ディミュヌエンドとソット・ヴォーチェの巧さは比類ない。第3回目の1920年パテ盤が一番良い。Arcadetの'Chanson lorraine'の洒脱な軽やかさは絶品である。ジャン=バティスト・フォレの「枝の主日」も白銀のやうな高貴な声が堪能できる名唱だ。

 マルティーニ'Plaisir d'amour'の包み込むやうな優しさは格別である。カヴァッリ'Donzelle,fuggite'が極上の出来で、声音の変化は至藝である。グリーグは貴族的な抑制が見事で、パルラント唱法も美しく違和感はない。シューベルト「ます」だけはフランス語歌唱による異端の歌唱といふこともさることながら、クレーマンの独自の歌唱法の為、鼻歌のやうに聴こえて仕舞ふといふ珍妙な録音である。

 歌曲は全て名唱といふに相応しく、全てを詳しく述べるのは煩雑であるので避けたが、晩年の幾つかの録音を除けば比類のない藝術を堪能出来るだらう。



 クレーマンの歌唱は全てが神品であるのだが、興味を持たれた方の為に特に優れた録音を列挙しよう。オペラではマスネ「マノン」'Le rêve'が絶対で、3種あるうち最初のオデオン盤を特に薦めよう。次いで「マノン」'Air de Saint-Sulpice'、「ウェルテル」'Pourquoi me réveiller'、ラロ「イースの王様」、ゴダール「ジョスラン」、ボワエルデュー「白衣の婦人」の2曲、ジュールネとのビゼー「真珠採り」を挙げよう。メロディーではドビュッシー「グリーン」「ロマンス」、バンベール'Ça fait peur aux oiseaux'が絶品である。ヴェッケルランの作品は悉く良いが、'Bergère légère'と'L'amour s'envole'が取り分け傑作だ。次いで、フォレ「月の光」「さらば」、アーン「牢獄にて」、ペサール「朝の別れ」を挙げよう。フランスの楽曲を好む方ならこれらを聴いてクレーマンこそがなべてあらゆる歌手に冠絶することを忽ち諒解出来るに違ひない。




 クレーマンの復刻はRomophoneから出た2種のCDが全てである。その他のレーベルからの復刻はアンソロジーの中に数曲含まれてゐる程度のお粗末なものなので、求める価値も意味もない。Romophoneが廃業して仕舞つたので、入手は現在困難ではある。



上記以外の録音をご存知の方がをりましたら、ご教授頂けると幸甚です。
ご感想、ご意見、お気付きの点ございましたらこちらまでご連絡下さい。

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